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5月27日に無錫市にやってきた聖火リレーをを迎える無錫市の副市長

オリンピックを平穏無事に開催するために、北京の政府機関へ直訴をするかもしれないと見なされた全国各地の労働者や農民が、さまざまな圧力や不当な拘束を受けている。江蘇省無錫市陽山鎮西庄村の農民、桃堅勇さんもその一人だ。鎮政府は「オリンピック特別学習班」なる組織をでっちあげ、そこで「学習」させるという口実で桃さんを不当に拘束した。地元政府との争いを抱える全国各地の人民は当初オリンピックに対しては何ら批判的な見解をもってはいなかった。しかしオリンピック開催直前から全国各地で吹き荒れた恫喝や不当な拘束を通じてオリンピックが決して民衆と親和的なものではないことを「学習」しつつある。以下は「六四天網」サイトからの翻訳である。(H)

 + + + + +

「オリンピック特別学習班」拉致された農民、桃堅勇
天網江蘇訊2008-8-11
http://www.64tianwang.com/bencandy.php?fid=13&aid=3240

失踪したと思ったら「オリンピック特別学習班」に拉致

8月5日午前、無錫市恵山区陽山鎮西庄村の農民、桃堅勇がひとりで田んぼ作業をしていたところ、陽山鎮派出所の警官、楊健ら数名に突然連れ去られた。昼食になっても戻ってこないことを心配した家族があちこちを探したが消息は全くわからなかった。その日の夜になって家族は村の女性主任から、桃堅勇がオリンピック期間中に特別に設けられた「学習班」に秘密裏に拉致されたことを聞き出した。

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【読書案内】『もうひとつのチベット現代史 プンツォク=ワンギェルの夢と革命の生涯』①
【読書案内】『もうひとつのチベット現代史 プンツォク=ワンギェルの夢と革命の生涯』②
の続き

プンワンはラサで結婚した妻のツリナや同志のトプテンらとともに、ラサから追われ、インドのカルカッタ経由で雲南省北部の麗江に入り、49年8月15日に中共[シ真]西北地区工作委員会との接触に成功した。中国西南部ではいまだ国民党軍が抵抗していたが、ここ雲南省北部はペー族の欧根が指揮官兼政治委員をつとめる西北遊撃隊がほぼ制圧していた。

batan1939.jpg 
チベット東部のカム地方を支配した西康省主席の
劉文輝とその家族。1938年、ダルツェンド(康定)


プンワンらは麗江などがある雲南省北部に隣接する自らのふるさとカム南部に武装根拠地を作り、雲南北部と相互に援助しあってこの地域を制圧するということになった。

ここで「組織問題」が生じた。欧根は、「以前、あなたがたの組織の活動については聞いたことがあるが、すっと連絡がなかったのだから、もう一度中共へ入党の手続きをしてほしい」という要請である。

プンワンらは1939年に重慶にある国民党の蒙蔵学院でチベット族共産主義革命運動グループを結成したが、学生運動を理由に同学院を除籍となるが、41年に重慶の共産党の八路軍の事務所で葉剣英から「われわれは革命の同志だ」と歓迎され、「チベット人地域に帰って革命活動を展開しなさい」というアドバイスに従い、それ以降チベット人地域での活動を中国共産党の支援に頼ることなく展開していった。

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北京在住のチベット人作家、ウーセルさんがオリンピック直前のチベットの状況を語ったものを翻訳・転載する。ウーセルさんは自身のBlogなどでチベット問題について積極的に発言をしている。


 
ウーセルさんについては
http://www.tibethouse.jp/news_release/2008/080506_woeser.html
看不見的西蔵~唯色博客(見えざるチベット~ウーセルのブログ:中国語)
 http://woeser.middle-way.net/


 + + + + +

チベット人にNOを突きつける北京オリンピック
ウーセル

原文
http://woeser.middle-way.net/2008/08/blog-post_2834.html

3月以降、チベット人が自分たちの大地から発した声は世界を震撼させてきた。この声はチベット式の叫びであり、チベット人こそが、さらにはその中でも農村や牧場のチベット人のみが発することのできる叫びであったが、それは中国のメディアには「狼の遠吠え」と形容された。これは興味深い重要な細部の事柄である。

北京オリンピックの聖火がラサを通過する際には、特別の許可書のないチベット人はすべて外出を禁じられ、あまり多くは残っていない僧侶たちも寺院を離れることは許されなかった。容疑者とされるおよそ200人以上の人が拘束されている。ラサの友人は恨めしそうにこう語っている。「中国のほかの都市の聖火リレーの場合には市民は見学できるのに、なぜチベット人にはそれができないのか? わたしたちはこの国の公民ではないのか」

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Chinese human rights Defenders」(CHRD)によると、8月7日、午前11時、中国退役軍人の権利を守るための活動をしている北京武装警察部隊退役軍人の単春が北京市西城区新康街甲1号にある北京市公安局治安総隊総合受付所でデモ示威申請をしたところ、受理されずに申請を取り下げるように言われた。

      「新唐人」の動画ニュース
     
(単春さんは以前より退役軍人の処遇改善について陳情などの活動をつづけてきた。海外の中国人らで運営する「新唐人」の動画ニュースは、単春さんがオリンピックを二ヵ月後に控えた6月はじめに、胡錦涛国家主席や温家宝首相に宛てて「人権オリンピックの公約を果たし、私たちにも同様に人権を保障してください」という待遇改善を訴えた公開状を送ったことを報道している-下記にニュース原稿の粗役掲載)

単春は、北京市公安局治安総隊総合受付所で、所定の用紙に記入して必要書類を添付して提出したが、その場で口頭で不受理を告げられたという。不受理の理由を聞いたがはっきりとした答えを述べず、さらに書面での返答を要求したが、それに対しても理由も述べずに書面での回答はできないと強弁した。

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人権侵害の金メダルオンパレードの北京オリンピックが始まった。

中国政府は、北京市内に集会やデモのできる三箇所の場所を指定し、警察の許可を受けたデモを行うことができるとしている。

中国政府系の日本語ニュースウェブサイト、「人民ネット」によると、北京オリンピック組織委員会安保部部長、劉紹武が7月23日に記者会見で発表した。

オリンピック開幕直前に北京に掲げられた"Free TIBET" (BBC)
 

 

◎五輪中デモは事前に申請を 3カ所の公園を指定(人民ネット日本語版)
http://j.peopledaily.com.cn/2008/07/24/jp20080724_91688.html

劉部長によると「五輪期間中、合法的なデモは法律の保護を受けるが、事前に申請し、指定した場所で行うことが前提」であり、公安部門に申請を出し許可を受けていることがその前提となるという。

そして「許可を受けたデモであれば、中国の警察当局は法に基づき、集会やデモを行う人の合法的な権利を保護する」と「法治国家」ぶりをアピールした。

だがそんなメッキはすぐに剥がれ落ちた。

8月3日に、四川省成都市の公安局にデモ申請をした陳雲飛は、デモ申請が受け付けられなかった顛末をウェブサイトに掲載している。

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【読書案内】『もうひとつのチベット現代史 プンツォク=ワンギェルの夢と革命の生涯』① の続き

1949年7月にラサを退去させられたプンワンは、カム地域の南部に隣接する雲南省北部を制圧していた中国共産党のもとへ向かい、そこで正式に中国共産党に入党することになる。
 
その後のプンワンの活躍と挫折を紹介する前に、このころのプンワンらチベット共産主義者が目指したチベットの改革案を見てみよう。

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プンツォク=ワンギェル(ブンワン)

 1940年代末、チベットを取り巻く状況は大きく動き始める。インド独立と中華人民共和国の建国である。1947年8月、イギリスがインドから撤退し、国民会議派が権力を握り、独立宣言を発した。チベット政府は二ヵ月後の10月に、インド、中国、イギリス、アメリカ、スイスなどに通商代表団を派遣し、チベットの自主性をアピールする。しかしチベットの伝統的支配層にとっては、「伝統的行事となっているダライ=ラマの僧院訪問のほうが、世界の政局よりも重要であった」(ハインリヒ=ハーラー)。 

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『もうひとつのチベット現代史 プンツォク=ワンギェルの夢と革命の生涯』 
阿部治平 著 明石書店 6500円 2006年4月15日発行



大きな書店にはいまだにチベット関連のコーナーが設置されている。8月オリンピックまでつづくであろう「中国危機」ブームの反映であろうか。チベットコーナーの本棚に並べられている書籍の中でひときわ分厚く目立つのが『もうひとつのチベット現代史 プンツォク=ワンギェルの夢と革命の生涯』だ。

3月にラサを中心にチベット各地で発生した暴動を契機にチベット問題に関心を持ち、書店でチベット関連の書籍を捜し求めた人であれば、一度は手にしたことはあるのではないだろうか。そしてその分厚さと値段をみて、そっと本棚に戻した人も少なくは無いだろう。

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6月28日、中国西南部の貴州省黔南プイ族ミャオ族自治州の甕安県で、地元の警察、政府、共産党委員会に対する大規模な抗議行動が行われた。



発端は、中学3年生の李樹芬さんが、21日に家を出たきり戻らず、近所の西門河で遺体で発見された。家族は暴行されて殺されたとして警察に訴え、容疑者が捕まったが、警察は「少女は自殺」として、この容疑者を釈放したことである。納得のいかない遺族は、警察署へ検死を行うよう要求しに行ったが、逆に暴力を振るわれ追い払われた。少女の叔父で中学の教師をつとめる李秀忠さんも、姪の死を知った直後に教育局へ事情を聞きに行った帰りに、正体不明の6人の暴漢に襲われ重傷を負っている。

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6月21日、北京オリンピックの聖火リレーが、数万の軍・警察の厳重な警備体制が敷かれたチベット・ラサを通過した。ラサ市街地では、聖火到着の前日から、立ち入り禁止地区が設置され、タクシー営業も禁止された。街頭には警察、武装警察があふれ、青蔵鉄道沿線は7000人もの軍・警察によって厳重警備が敷かれた。当日は大規模な交通規制とコース沿道住民の外出禁止や商店の営業禁止、報道にも厳しい規制が敷かれるがなど、2時間にも満たない聖火リレーのためにラサ市街地は完全な軍統制のもとにおかれた。

ネパールとインド・ダラムサラでの抗議行動


聖火は午前9時12分(日本時間10時12分)にダライ・ラマの夏の離宮だったノルブリンカ前広場を出発し、午前11時にポタラ宮へ到着、5月8日にチョモランマ(エベレスト)登頂に成功した聖火の火種との融合式が行われ、「民族調和」を演出した政治的、軍事的ショーは、大きな混乱もなく終了したといえるだろう。

カナダでの抗議行動

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1989年6月4日の天安門事件の犠牲者を追悼する集会が毎年香港では行われています。今年は6月1日に行われ参加者は900人と例年になく少なかったように思われましたが、4日当日は5万人近くの市民が参加し、中国民主化に向けた香港市民の思いの強さをあらためて見せつけました。

燭光悼念六四19週年


香港の革命的社会主義派グループ・先駆社によるアピールを訳しました。

アピールに書かれてある、地震の犠牲となった子どもたちの親による抗議行動は、警察によって妨害を受けています。

四川省成都の人権活動家、ホアン・チーさんは、被災地に入り、被災者の状況や、子どもを亡くした親たちの状況をウェブサイトで発信してきましたが、6月10日に失踪し、12日に当局に確認をしたところ「違法に国家機密を入手した容疑」で逮捕したと伝えられたそうです。

まったくひどい震災復興政策です。
(H)

6.4.1989


==========

市民の相互扶助を高揚させ、被災者支援と復興を監視し、労働者民主主義をかちとろう
http://www.xinmiao.hk.st/trad/chinafuture3/chifu3134.htm

先駆社

四川省大地震による犠牲者は7万人に達し、負傷者は37万人にのぼった。多くの人びとが帰る家を失った。われわれはすべての犠牲者と被害を受けた同胞に対して心よりお見舞いを申し上げる。

手抜き工事さえなければ、これほどまでに多数の人々が犠牲になることはなかったということを誰もが知っている。1989年6月4日の犠牲者が中国共産党の直接の虐殺によるものだとすれば、今回の地震による死傷者は中国共産党の腐敗した官僚による間接的な殺傷事件である。6月4日のツケとともに、この借りは早晩決着をつけなければならないだろう。そして一部の人びとはすでに立ち上がり始めている。

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