アジア連帯講座のBLOGです
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『もうひとつのチベット現代史 プンツォク=ワンギェルの夢と革命の生涯』
阿部治平 著 明石書店 6500円 2006年4月15日発行
大きな書店にはいまだにチベット関連のコーナーが設置されている。8月オリンピックまでつづくであろう「中国危機」ブームの反映であろうか。チベットコーナーの本棚に並べられている書籍の中でひときわ分厚く目立つのが『もうひとつのチベット現代史 プンツォク=ワンギェルの夢と革命の生涯』だ。
3月にラサを中心にチベット各地で発生した暴動を契機にチベット問題に関心を持ち、書店でチベット関連の書籍を捜し求めた人であれば、一度は手にしたことはあるのではないだろうか。そしてその分厚さと値段をみて、そっと本棚に戻した人も少なくは無いだろう。
阿部治平 著 明石書店 6500円 2006年4月15日発行
大きな書店にはいまだにチベット関連のコーナーが設置されている。8月オリンピックまでつづくであろう「中国危機」ブームの反映であろうか。チベットコーナーの本棚に並べられている書籍の中でひときわ分厚く目立つのが『もうひとつのチベット現代史 プンツォク=ワンギェルの夢と革命の生涯』だ。
3月にラサを中心にチベット各地で発生した暴動を契機にチベット問題に関心を持ち、書店でチベット関連の書籍を捜し求めた人であれば、一度は手にしたことはあるのではないだろうか。そしてその分厚さと値段をみて、そっと本棚に戻した人も少なくは無いだろう。
あらかじめ告白しておかなければならないが、ぼくは3月のチベット暴動がマスメディアなどで大々的に報道されても、いまいち関心を持つことができなかった。どうせまたアメリカが後ろにいるんだろう、だけど中国共産党もひどいよなぁ、くらいの感想しかもてなかったのだ。しかし、その後、報道を見たり、また左翼のなかでも中国共産党に対する弾圧を擁護とまではいわないにしても、ダライラマ批判などで問題の本質を摩り替える主張などに接するなかで、真実をしらなければならないと感じた。アジア連帯講座の仲間が長野で「Free Tibet」を訴えたり、東京でのチベット連帯の集会やデモなどに参加する中で、その思いはさらにつよまった。
というのも、あまりに何も知らなさすぎた自分に愕然としたからである。暇を見て書店を回り、いい本が無いか探した。チベットに関する書籍の多くが、ダライラマの意見を高く持ち上げ、中国共産党は単なる侵略者としてしか描いていないものが多かったからだ。
その中でめぐり合ったのが本書である。以下、本書の主人公、プンツォク=ワンギェル(略称、プンワン)の生涯を駆け足で紹介する。プンワンは、チベット人共産主義者であり、「インターナショナル」をチベット語に翻訳し、チベット各地でチベット革命のために活動し、中国共産党と当時のチベット政府の交渉のあいだに立ってチベット人の権利のために奔走したが、文化大革命では地方分離主義者として糾弾され、18年もの間、監獄に入っていたという極めて興味深い経歴を持つ。ダライラマや周恩来などとも何度も会ってチベットと中国の関係改善を模索し続けた人物である。
プンワンは、1922年、チベットと漢民族地域の境界であるカム地方のバタンに生まれる。カム地方は、チベットの中でも差別されてきた地域であり、また清や1911年の辛亥革命以降の中華民国の時代においても、つねに軍事的な支配下に置かれたり、またそれに反抗するカム人(カムパ)の蜂起が多発した地域でもある。
プンワンは、反軍閥蜂起にも参加したことのある叔父、ロサン=トンジュプとともに、南京へ行き、漢語をまなび、翌年には国民党中央の蒙蔵(モンゴル・チベット)学院に入学し、そこでマルクス主義やレーニンの「民族自決権について」やスターリンの「民族問題」、中国共産党の民族政策などを知り、共産主義に傾倒していく。
39年にチベット族共産主義革命運動グループを結成し、学生運動などを指導し、チベット語の「インターナショナル」などを翻訳したりするが、40年に、カムで起こった軍閥の劉文輝によるチベット人虐殺に抗議する運動を指導し、同学院を追放される。しかしその後、ソ連大使館や中国共産党などと接触し、ソ連留学や延安訪問を模索するも、さまざまな困難から断念。つよまる国民党の「アカ狩り」を逃れ、チベットのカムへ戻る。その際、ソ連大使館から提供された資金でレーニン選集などの書籍を購入してチベットに持ち込んだ。
カム地域の中心地、チャムドへ到着したプンワンは、開明派と言われていた総督ユトーにソ連を中心とした世界情勢を説き、信頼を得る。ユトーの紹介でチベットの首都ラサへ。ラサでは「雪域(チベット)共産党」を結成。また進歩的貴族達との統一戦線である「全ポェパ民族統一解放同盟」を結成し、チベットの大臣に政治や軍事、民衆負担の軽減などを直言。
44年にはインドのカルカッタへ行き、インド共産党のカルカッタ責任者などとも会い、モスクワ行きを嘆願したが、ここでも困難があり実現しなかった。
45年、チベットに接する雲南省北部のデチンで武装集団を形成していたゴンボ=ツェリンと合流、「東チベット人民自治同盟」を結成して、反軍閥と自治を目指して武装蜂起を準備する。しかし蜂起は事前に察知され弾圧される。プンワンは難を逃れるが、「共産主義者」として指名手配され、カム一帯に知られることになる。プンワンはラサに逃げる。
49年までラサで活動し、チベット革命綱領などを作るが、49年7月にチベット政府は、ラサの中華民国政府要人や漢人商人などを追放、プンワンも危険分子として追放される。そのころ雲南省北部は中国共産党によって解放区になっており、プンワンはそこで正式に中国共産党員となった。そして生まれ故郷のバタンに帰り「バタン地下党」などを結成し、地域一帯の権力を掌握。
50年10月、新中国成立から1年がたち、国民党との内戦にほぼ勝利した中国共産党軍は、カムの中心地であり軍事的要衝であるチャムドを陥落させた。チベット解放を夢見たプンワンはその後も大活躍をするが、大漢民族主義とスターリニズムの急進的集団化など、さまざまな弊害がチベット民衆に襲い掛かり、カムをはじめチベット全土での反中国蜂起と敗北、ダライラマ亡命などにつながっていく。
(つづく)
(H)
というのも、あまりに何も知らなさすぎた自分に愕然としたからである。暇を見て書店を回り、いい本が無いか探した。チベットに関する書籍の多くが、ダライラマの意見を高く持ち上げ、中国共産党は単なる侵略者としてしか描いていないものが多かったからだ。
その中でめぐり合ったのが本書である。以下、本書の主人公、プンツォク=ワンギェル(略称、プンワン)の生涯を駆け足で紹介する。プンワンは、チベット人共産主義者であり、「インターナショナル」をチベット語に翻訳し、チベット各地でチベット革命のために活動し、中国共産党と当時のチベット政府の交渉のあいだに立ってチベット人の権利のために奔走したが、文化大革命では地方分離主義者として糾弾され、18年もの間、監獄に入っていたという極めて興味深い経歴を持つ。ダライラマや周恩来などとも何度も会ってチベットと中国の関係改善を模索し続けた人物である。
プンワンは、1922年、チベットと漢民族地域の境界であるカム地方のバタンに生まれる。カム地方は、チベットの中でも差別されてきた地域であり、また清や1911年の辛亥革命以降の中華民国の時代においても、つねに軍事的な支配下に置かれたり、またそれに反抗するカム人(カムパ)の蜂起が多発した地域でもある。
プンワンは、反軍閥蜂起にも参加したことのある叔父、ロサン=トンジュプとともに、南京へ行き、漢語をまなび、翌年には国民党中央の蒙蔵(モンゴル・チベット)学院に入学し、そこでマルクス主義やレーニンの「民族自決権について」やスターリンの「民族問題」、中国共産党の民族政策などを知り、共産主義に傾倒していく。
39年にチベット族共産主義革命運動グループを結成し、学生運動などを指導し、チベット語の「インターナショナル」などを翻訳したりするが、40年に、カムで起こった軍閥の劉文輝によるチベット人虐殺に抗議する運動を指導し、同学院を追放される。しかしその後、ソ連大使館や中国共産党などと接触し、ソ連留学や延安訪問を模索するも、さまざまな困難から断念。つよまる国民党の「アカ狩り」を逃れ、チベットのカムへ戻る。その際、ソ連大使館から提供された資金でレーニン選集などの書籍を購入してチベットに持ち込んだ。
カム地域の中心地、チャムドへ到着したプンワンは、開明派と言われていた総督ユトーにソ連を中心とした世界情勢を説き、信頼を得る。ユトーの紹介でチベットの首都ラサへ。ラサでは「雪域(チベット)共産党」を結成。また進歩的貴族達との統一戦線である「全ポェパ民族統一解放同盟」を結成し、チベットの大臣に政治や軍事、民衆負担の軽減などを直言。
44年にはインドのカルカッタへ行き、インド共産党のカルカッタ責任者などとも会い、モスクワ行きを嘆願したが、ここでも困難があり実現しなかった。
45年、チベットに接する雲南省北部のデチンで武装集団を形成していたゴンボ=ツェリンと合流、「東チベット人民自治同盟」を結成して、反軍閥と自治を目指して武装蜂起を準備する。しかし蜂起は事前に察知され弾圧される。プンワンは難を逃れるが、「共産主義者」として指名手配され、カム一帯に知られることになる。プンワンはラサに逃げる。
49年までラサで活動し、チベット革命綱領などを作るが、49年7月にチベット政府は、ラサの中華民国政府要人や漢人商人などを追放、プンワンも危険分子として追放される。そのころ雲南省北部は中国共産党によって解放区になっており、プンワンはそこで正式に中国共産党員となった。そして生まれ故郷のバタンに帰り「バタン地下党」などを結成し、地域一帯の権力を掌握。
50年10月、新中国成立から1年がたち、国民党との内戦にほぼ勝利した中国共産党軍は、カムの中心地であり軍事的要衝であるチャムドを陥落させた。チベット解放を夢見たプンワンはその後も大活躍をするが、大漢民族主義とスターリニズムの急進的集団化など、さまざまな弊害がチベット民衆に襲い掛かり、カムをはじめチベット全土での反中国蜂起と敗北、ダライラマ亡命などにつながっていく。
(つづく)
(H)
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