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【読書案内】『もうひとつのチベット現代史 プンツォク=ワンギェルの夢と革命の生涯』① の続き

1949年7月にラサを退去させられたプンワンは、カム地域の南部に隣接する雲南省北部を制圧していた中国共産党のもとへ向かい、そこで正式に中国共産党に入党することになる。
 
その後のプンワンの活躍と挫折を紹介する前に、このころのプンワンらチベット共産主義者が目指したチベットの改革案を見てみよう。

は
プンツォク=ワンギェル(ブンワン)

 1940年代末、チベットを取り巻く状況は大きく動き始める。インド独立と中華人民共和国の建国である。1947年8月、イギリスがインドから撤退し、国民会議派が権力を握り、独立宣言を発した。チベット政府は二ヵ月後の10月に、インド、中国、イギリス、アメリカ、スイスなどに通商代表団を派遣し、チベットの自主性をアピールする。しかしチベットの伝統的支配層にとっては、「伝統的行事となっているダライ=ラマの僧院訪問のほうが、世界の政局よりも重要であった」(ハインリヒ=ハーラー)。 


200家族が支配するといわれるチベット支配層は宗教行事とともに、派閥抗争に明け暮れ、政敵の暗殺や報復を宮廷や僧院で繰り返していた。それに対して、ラサの庶民は「貴族連中は全くなにをたくらむかわかったもんじゃない、機会さえあればお互いにおとしいれよいうとしている」とつけはなしてみており、「ラサの人たちは自分たちとはちがった世界の出来事として、安心感をもって貴族社会のシーソーゲームを見物」(『チベット潜行十年』202~203ページ)していたという。

日本特務機関の特務としてモンゴル人、ダワ=サンボを名乗り終戦前後の一〇年間チベット各地を歩き、戦後『チベット潜行十年』(中公文庫)を記した木村肥佐士は、その著書の中で、日本敗戦後にラサで、プンワンらとチベット改革に向けての綱領を話し合ったことを明らかにしている。

「彼(プンワン:引用者)が長年にわたって研究した、チベットの貴族専制封建主義社会に関する論文について、またその改革案について、わたしたちはよく議論した。私自身も堕落しきったチベットの貴族特権階級の専横や、貧しすぎるチベット民衆のあきらめきったようなあり方に非常に矛盾を感じていたので、プンツォ・ワンジル(=プンワン:引用者)の改革案には大いに共鳴するところがあった。」「私と知り合う前、プンツォは内閣にチベット封建政治改革案を提出したそうである。」(『チベット潜行十年』220ページ)

ここで言われているプンワンが以前提出した「政治改革案」とは、43年にプンワンらがラサで結成した「高原共産主義革命小組」が指導した「全ポェパ民族統一解放同盟」が、カロン(大臣)らに提出した請願のことを差すと思われる。プンワンらは、当時四人いたカロンのうち、一番若いカロンのスルカン=ワンチェン=ゲレクを通じて自らの改革案を提示した。

「小型近代工業の建設、『ウーラ』(賦役:引用者)の減免・民衆の負担軽減・生活の改善など一連の改良政策を列挙」し、「国民党政府および軍閥支配下にある金沙江東部のカムとアムドに、圧制に反対する民主革命をおこなうためのゲリラ闘争を展開すべきだとし、その根拠地を建設することなどを提起」した。「チベット高原全体に進歩・民主・文化的な新しい基礎の上に(ウ・ツァン、アムド、カムの三地域の:引用者)大連合・大統一を実現すること。政権としては、ウ・ツァンとカムとアムドの有識人士や代表的人物で構成する臨時的政府を樹立するという内容が盛り込まれていた」という。(『もうひとつのチベット現代史』83ページ)

支配層の堕落にもかかわらず依然強固な伝統的支配がつづくラサを中心とするウ・ツァン地域における漸進的民主的改革と、清朝末期から民国時代にかけて軍閥や国民党軍の進攻にさらされ、またチベット政府からも辺境の収奪の地としてみなされてきたカム地域における武装闘争と民主革命というプンワンらチベット共産主義者の当時の戦略がみてとれる。

プンワンらの改革案は、スルカンなどごく少数の進歩的支配層の関心を引いたのみで、前述のように大多数の支配的貴族らは自らの権力維持と宗教行事のみに関心を注ぎ、プンワンらの改革案に対してあからさまな拒絶反応や無視を決め込んだ。

それからわずか5年あまり、前述のようにチベットを巡る国際情勢は大きな転換を迎えつつあった。

1948年、雲南省北部のデチンでの武装蜂起に失敗しラサに活動の拠点を移していたプンワンらは、ダワ=サンボらとともにチベット革命綱領をつくる。それは「日本の明治維新を参考にして、世襲貴族や上級ラマからなる上院と、選挙された代表からなる下院の二院制度、及び廃藩置県をモデルに、貴族や寺院の領地接収とその代償としての処遇案などを提示した。また改革の根本的精神として、五箇条の御誓文を翻訳したりもした。」(『チベット潜行十年』284ページ)

そこに紹介されている改革案は、社会主義を目指すプンワンらチベット人共産主義者にとっては、最小限綱領とでもいうものだろう。ダワ=サンボこと木村はこう述べている。

「私自身は後になるまで気がつかなかったことだが、筋金入りのマルクス=レーニン主義者の彼(プンワン:引用者)にとってはこれは長い道程のほんの一歩にすぎなかった。革命とは強引に強制していくものではなく、一歩一歩着実に進めていくべきものであることを彼は知っていた。」(『チベット 偽装の十年』スコット=ベリー編、中央公論新社)

革命は強引に強制されるべきものではない。しかし一歩一歩着実に進めていくべきものであるかどうかを決めるのは革命の主体である民衆が直面する階級的情勢とそこから導き出される(あるいは強制される)戦略によって決められるものだろう。

中国共産党政権の民族政策の批判的検討を進めるにあたっては、民族自決権などの理論的原則はもちろんだが、それだけでなく、より具体的な情勢をふまえた戦略と政策が提示されたのかどうかをみなければならないだろう。それは現在の中国政府のチベット政策やわれわれの民族スローガンについても同じことが言えるだろう。

1949年7月、チベット政府は、庶民に知らせることもなく貴族と上級官僚らで構成される「国民議会」を招集し、7月8日、突如、中華民国政府代表や共産主義者の疑いのあるチベット人をラサからの撤退を命じた(駆漢事件)。プンワンやダワ=サンボらも退去を命じられた。プンワンは49年8月15日カム地域南端と接する雲南北部の麗江に到着する。そこでは中共[シ真](雲南)西北地区工作委員会と連絡をとった。雲南の北部はすでに同委員会の書記であり、北西遊撃隊の指揮官兼政治委員であったペー族の欧根らの部隊によって制圧されていた。プンワンらはこの地域の北側に広がるカム地域南部に根拠地をつくることを目指し、中国共産党に正式に入党する。

二ヵ月後には遠く離れた北京の天安門楼上から毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言することになる。

(つづく)

(H)
 

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