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▲HOANG KHOA KHOI (Robert): 1917-2009

ベトナム古参トロツキストの死
ホアン・コア・コイ(1917~2009)の思い出http://www.internationalviewpoint.org/spip.php?article1652

    ジャンミシェル・クリビンヌ

 私たちの親愛な同志ホアン・コア・コイは4月9日、92歳で亡くなった。彼の家族、友人は彼への追悼のために一週間後にペール・ラシェーズ墓地(訳注:パリ市内の広大な墓地。パリコミューン戦士、レジスタンス戦士、エルネスト・マンデルらの墓もある)の前に集まった。

 彼は生存しているベトナム人トロツキストの中で最高齢だった。彼は、戦争の前線に送られた労働者の代わりとして植民地政府が徴発した二万人のONS(非専門職労働者)とともに、1939年にフランスにやってきた。

 1042年、彼は「共産主義宣伝」を理由にソルクの刑務所に三カ月半投獄された。しかし彼が第四インターナショナルに加盟したのはその後のことだった。彼は出獄して、若いベトナム人ダン・ヴァン・ロンに出会った。ダン・ヴァン・ロンは軍陣地の指揮官に請願を行ったとして罪に問われていた。それ以後長きにわたって、彼はホアン・コア・コイの最良の友となり、四年後彼も第四インターに加盟した。

 1945年以後コイは活動に参加し、国際主義共産党(PCI、当時の第四インターナショナル・フランス支部)の指導部となり、幾人かの同胞とともに最初はPCIのメンバーとして、後にPCIの後継組織であるLCRのメンバーとして、「在仏ベトナム人トロツキストグループ」を設立した。彼もその一人である二人のベトナム人同志が、1957年12月に開催された第四インターナショナル第五回世界大会で執行委員に選出された。


 私は、1947年以来、反対運動に参加していた第一次ベトナム戦争に大きな影響を受け、青年社会主義同盟(社会民主主義の青年組織で、その中では気づかれることなくトロツキストの核が発展していた)に加盟した。社会党指導部によってそのトロツキストグループが解散させられた後、私はフランス共産党(PCF)に加盟し、1956年に第四インターに加盟した後も共産党内にとどまった。私が、ロベールという偽名で知り合ったコイと会ったのは1960年代になってからだった。彼の体現する文化、カリスマ性、親切さ、国際主義的精神に引きつけられた私は、ベトナム人グループに参加した。その中で私はただ一人の「白人」メンバーだった。

 私たちの毎週の会議は、パリの十一区サン・アンブロワーズ通りの彼の家で行われた。私が、五回も訪問する機会を得たベトナムへの熱情を発展させたことは、本当に彼のおかげだった。最初の二度の訪問は最も興味深いものだった。それは1967年、アメリカによる戦争のさなかであり、「ラッセル法廷」(訳注:アメリカの侵略戦争を告発する国際的民衆法廷)の中で行われたからである。北ベトナムは私がフランス共産党員だと知って(私が共産党を離れたのは1970年になってからだ)、私を17度線(米国占領下の南部との境界)まで連れていってくれたが、それは外国人としてはめったにないことだった。そこで私のために組織された旅は、南のゲリラとともに行われることになった。

 フランスのわがベトナム人グループは、限定された配布網でベトナム語の評論誌『ギエン・クー』を発行した。私たちは1986年にこの雑誌の発行を停止し、フランス語の季刊誌『クロニーク・ベトナミエンヌ』を発行することを集団的に決定したが、その仏語季刊誌の表紙には「在仏ベトナム人トロツキストグループ(LCR)編集」と書かれた。「ロベール」はハ・クオン・ギという筆名でほとんどすべての編集部論説を書いた。

 私は時には私の本名で、また時にはブイ・チエン・チという名で書いた。この評論誌は1986年9月から1991年夏まで、二千部で発行された。「ロベール」が彼の本名で1992年に書いた論文「だれがタ・トゥ・タァウとベトナムトロツキストを殺したか」を掲載した特別号は1997年秋に刊行された。この問題に関する特集は1987年に出されている。1967年に私がベトナムから帰った後に、ファン・ゴック・タク保健相の求めに応じて、緊急の医療援助のためのフランス―ベトナム医療協会(AMFV)を私たちが設立したことについても言うべきだろう。私は1973年まで、きわめて積極的にこの活動を行った。「ロベール」はもちろん医者でも看護師でもなかったが、彼のアドバイスは私たちにとって非常に貴重だった。

 1970年代と1980年代に、第四インターナショナルが「現存社会主義」諸国のモデルに沿ってベトナム社会が官僚化する危険性について白熱した討論を行ったことも付け加えるべきだ。多くの同志は、ベトナム共産党の模範的な闘いを考えればこのリスクは「回避可能」であり、ソ連邦や人民民主主義諸国のような官僚的カーストの「結晶化」はないだろうと考えた(そして希望した)。「ロベール」と彼の同志たちはそれには反対の意見であり、ベトナムはすでに「官僚的独裁」の下にあると主張した。それは1976年にフランス語で書かれ、1985年の『ギエン・クー』に掲載された彼らの文書の一つ「ベトナムの官僚」を読めば十分である。私はL・クチュリエの名でその見解を共にした。

 2001年、彼の親友であるダン・ヴァン・ロンが八十二歳で亡くなった。「ロベール」は彼を悼む感動的弔辞を書き、それはモントレイユでの葬儀で読み上げられた。私にとって、その最後の言葉は彼への別れの言葉としても最善であるように思われる。

 「この悼みと悲しみの日にあたって幾つかの記憶を思い起こすとすれば、それは君の友情がいかに私にとって親愛なるものであるかをあなたに告げることだ。君の死は私たちすべてにとって大きな損失だ。私たちは同志、友人、兄弟を失った。私たちは、その資質が長きにわたって私たちの模範となる稀有の存在を失った。さようなら、親愛なる兄弟。君の魂が安らかであることを願う」。

▼外科医であるジャンミシェル・クリヴィンヌは、1967年にベトナムを訪問した、アメリカの戦争犯罪を調査するラッセル法廷のチームの一員。彼は1975年から1987年にかけて三度ベトナムを訪れた。

(「インターナショナル・ビューポイント」09年4月号)

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