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いまから138年前の今日5月28日は、パリ・コミューン最後のバリケードが陥落した日だ。ほんの少し、バリケードに倒れた人々を偲び、その意義を振り返ってみたい。

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▲パリに築かれたバリケード

◎平和と労働!

パリ・コミューンは1871年3月26日の選挙を経て3月28日に設立された。その翌日、最長老議員のシャルル・ベレーはこう述べた。「平和と労働!これがわれわれの未来である。これがわれわれの復讐の保障であり、われわれの社会的復活の保障である!」1871年5月28日は、パリ・コミューン最後のバリケード、ランポンノー通りが陥落した日であり、第一インターナショナルメンバーとして、パリ・コミューン議員に選出され、最後の最後までバリケード戦を指揮したウジェーヌ・ヴァルランがヴェルサイユ軍に逮捕され銃殺された日としてプロレタリアートの歴史に記憶されている。

◎ブルジョアジーのクーデター

1870年9月2日、ルイ・ボナパルト率いるフランス軍は、フランス北東部の国境沿いの町スダンでドイツ軍に包囲され、捕虜となった。その二日後の9月4日、パリの民衆は立法議会になだれ込み、ナポレオン三世の廃位および共和制の宣言を要求した。

しかし権力を握ったのはパリの軍事総督トロシェ将軍を首班とするブルジョア政治家たちであり、プロイセンの侵略よりも武装したパリの労働者の方を恐れるブルジョアたちであった。2月には、フランス共和制の階級闘争の時代を渡り歩いてきた老獪なブルジョア政治家ティエールを首班とする政府が成立した。ティエールは対プロイセン戦争の停戦の代償をプロレタリアートに押し付けようとした。そしてプロイセン軍の進攻に対して、当てにならない将軍や政府軍に頼ることはできないとして武装していたパリの労働者に対する武装解除を画策した。ティエールはまた国民議会を武装した労働者から引き離すためにヴェルサイユへ移した。

3月18日、ヴェルサイユの政府軍は、モンマルトルやベルヴィルの高台にある大砲を労働者たちから奪還するために進撃。しかし警報が労働者街に鳴り響き、政府軍の進行を阻止し、大砲の周囲には女性や子どもたちが陣取った。進行した政府軍の兵士と労働者たちの交歓が行われ、大砲の周囲に陣取った女性たちに対して射撃命令を出した政府軍のルコント将軍は逆に兵士たちによって逮捕された。ティエール政府のもくろみは失敗し、すべての政府軍と政府首脳たちはヴェルサイユへ逃げ落ちた。その日の夜、パリの市庁舎には赤旗が掲げられた。

3月26日にはパリ・コミューン市議会選挙が行われ、28日には市庁舎前広場でパリ・コミューン宣誓式が行われた。シャルル・ベレーはこう述べた。「平和と労働!これがわれわれの未来である。これがわれわれの復讐の保障であり、われわれの社会的復活の保障である!」「このように理解された共和国は、さらにフランスの弱い者を支持し、働くものを保護し、全世界の搾取されるものの希望となり、世界共和国の基礎とすることができるのである」(モロク編『パリ・コミューン』)

◎コミューンの日々

「労働者階級は、できあいの国家機構をそのまま掌握して、自分自身の目的のために行使することはできない」

パリ・コミューンの意義を熱烈に擁護したマルクスの『フランスの内乱』はコミューンを次のように紹介している。

「コミューンは、市の各区での普通選挙によって選出された市議会議員で構成されていた。かれらは責任を負い、即座に解任することができた。コミューン議員の大多数は、当然に、労働者か、労働者階級の公認の代表者かであった。コミューンは、議会ふうの機関ではなくて、同時に執行し立法する行動的機関でなければならなかった。警察は、これまでのように中央政府の手先ではなくなり、その政治的属性をただちに剥ぎとられて、責任を負う、いつでも解任できるコミューンの官吏に変えられた。行政府の他のあらゆる部門の官吏も同様であった。コミューンの議員をはじめとして、公務は労働者なみの賃金で果たされなければならなかった。」(マルクス『フランスの内乱』)

このように「自分自身の目的のために」行動しはじめたパリ・コミューンは、さまざまな弱点を持ちながらも史上初めての労働者権力として、つぎつぎと政策を打ち出した。

3月29日、徴兵の廃止と旧軍隊の廃止の法令。家賃の支払いを九ヶ月間停止する法令。
4月1日、国家官僚の俸給を熟練労働者の賃金と同じ年6000フラン以下にする法令。
4月2日、教会を国家から分離する法令。
4月16日、休業中の工場を労働者協同組合によって操業再開させる法令。
4月18日、商業手形の支払いを3年間無利息で延期する法令。
4月20日、パン焼き工場での夜間労働撤廃の法令。
4月27日、労働者に対する不当な罰金等を禁じる法令。
5月6日、20フラン以下の質入れ物品の無料返却を認める法令。

◎労働の解放、収奪者の収奪

マルクスはコミューンが「本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級に対する生産者階級の闘争の所産であり、労働の経済的解放をなしとげるための、ついに発見された政治形態であった」と喝破した。

そして「コミューンは、諸階級の、したがってまた階級支配の存在を支えている経済的土台を根こそぎ取りのぞくためのテコとならなければならなかった。労働が解放されれば、人はみな労働者となり、生産的労働は階級的属性ではなくなる」と訴えた。

「コミューンは、多数の人間の労働を少数の人間の富と化するあの階級的所有を廃止しようとした。それは収奪者の収奪を目標とした。それは、現在おもに労働を奴隷化し搾取する手段となっている生産手段、すなわち土地と資本を、自由な協同動労の純然たる道具に変えることによって、個人的所有を事実にしようと望んだ。」

◎新しい社会の諸要素を解放する

しかし果たしてそんなことがうまくいくのか。ブルジョアジーを追い出し、人民への宣言を発するだけ、そしていくつかの法令を張り出すだけで事足りるのか。「そんなことは不可能だ!」とヴェルサイユをはじめとする世界中のブルジョアや王侯貴族たちは銃剣と軍靴を踏み鳴らし叫ぶ。

マルクスは、史上初めての労働者政権の歴史的使命を簡潔に説明する。

「労働者階級はコミューンに奇跡を期待しなかった。……自分自身の解放をなしとげ、それとともに、現在の社会がそれ自身の経済的要因によって不可抗的に指向している、あのより高度な形態をつくりだすためには、労働者階級は長期の闘争を経過し、環境と人間をつくりかえる一連の歴史的過程を経過しなければならないことを、かれらは知っている。かれらのなすべきことはなんなのかの理想を実現することではなく、崩壊しつつある古いブルジョア社会そのものの胎内にはらまれている新しい社会の諸要素を解放することである。」

◎「戦争を望むものは人類の名において打倒されるだろう」

パリ・コミューンは他の国へも影響を及ぼした。フランス植民地のアルジェリアではパリ・コミューンに連帯を示す大衆的でデモンストレーションがおこなわれた。パリ・コミューンの書記アムールは、プロイセン軍に背後から支援されたヴェルサイユ政府軍の攻勢が強まる5月14日、集会で次のように発言し、パリ・コミューンの反戦思想を明らかにした。

「われわれはこれ以上戦争を望まない。われわれはわれわれを抑圧してきた暴君たちを打倒するために、人類にかわってわれわれの血を流したのだ。戦争を望むものは、人類の名において打倒されるだろう。パリが打倒されれば、暴君たちの王国が復活するであろう。勝利したパリはヨーロッパにむかって言う。われわれは何ヶ月も、何年間も続くかもしれない戦争を阻止するために、この数週間闘ってきたのだ、と。」(モロク編『パリ・コミューン』)

アルジェリアはその後も暴君たちに蹂躙されつづけ、その解放は1962年のアルジェリア解放戦争の勝利まで待たなければならなかった。

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▲斃れたパリ・コミューン戦士たち

◎「血の一週間」をくぐりぬけて

5月21日、ドイツ占領軍司令部との協定によって兵力を増強したヴェルサイユ政府軍は、パリ西南部のサン・クルー門からパリ市街地に侵入した。

翌日、ヴェルサイユ政府の首班、ティエールはこう語った。「秩序と正義と文明の勝利はついにかちとられた!」

赤旗はためくパリに対するヨーロッパ中のブルジョアと王侯貴族の憎悪を一身に代弁したこの老獪な政治家の宣言は、早すぎた勝利宣言であった。この「秩序と正義と文明」はつづく一週間、パリ中の600ものバリケードの上に3万ものコミューン戦士たちの死体を積み上げなければならなかったからだ。

「ブルジョア秩序の文明と正義は、その秩序の奴隷や苦役者が彼らの主人たちに反抗して立ち上がるときにはいつも、そのすさまじい姿をあらわす。そのときには、この文明と正義はむきだしの野蛮と無法な復讐となって現れる。横領者と生産者のあいだの階級闘争に新しい危機が起こるたびに、この事実はいっそうまざまざと現れる。」(マルクス『フランスの内乱』)

5月28日、ランポンノー通りの最後のバリケードがヴェルサイユ政府軍によって粉砕され、ヴェルサイユ軍総司令官マク・マオンが軍事行動の終結を命じる。裁判なしの銃殺が6月まで続いた。

詩人のウジェーヌ・ポティエは第一インターナショナルの会員として、パリ・コミューンの議員として、最後までバリケードでの戦闘を担った。その後、白色テロの続くパリでの逃亡生活を続けながら、次のような詩をつづった。

 これが最後の闘いだ
 団結しよう 明日には
 インターナショナルが
 人類をつなぐだろう

のちに世界中の労働運動や解放闘争で歌い継がれることになる「インターナショナル」はパリ・コミューンの歴史的勝利と敗北のなかで誕生した。

◎プロレタリア独裁

ランポンノー通りのバリケードが陥落した二日後の5月30日、マルクスはインターナショナル総評議会において『フランスの内乱』を読み上げた。

それは、起死回生を狙ったルイ・ボナパルトの対プロイセン戦争の敗北が引き起こしたフランス・パリ民衆の蜂起の力によって成立した第三共和制を簒奪したフランス共和派やボナパルト派の売国的立ち振る舞いや動揺を批判する一方で、史上初のプロレタリア独裁、短期間とはいえ樹立したパリ・プロレタリアートの偉業をたたえ、その敗北に対してヨーロッパ全土の封建派とブルジョア派から投げつけられた悪罵に対してパリ・コミューンの歴史的意義を断固と防衛したものであった。

「労働者のパリとそのコミューンとは、新社会の栄光ある先駆者として、永久にたたえられるであろう。その殉教者たちは、労働者階級の偉大な胸のうちに祭られている。」(マルクス『フランスの内乱』)

さらにその20年後、パリ・コミューン蜂起20周年にあたる1891年3月18日、死の直前にあった老エンゲルスは、『フランスにおける内乱』ドイツ語三版の序文でパリ・コミューンの偉業を簡潔にまとめ、最後にその意義を述べている。

「国家は、一階級が他の一階級を抑圧するための機構にほかならない……プロレタリアートは、コミューンがやったのとまったく同じように、それ〔国家〕の最悪の側面を、すぐさま、できるだけ切り取るほかないであろう。そして、いつかは、新しい自由な社会状態のもとで成長してきた一世代が、ついに国家のがらくたをすっかり投げ捨ててしまえるときがくるであろう。
社会民主党の俗物は、近ごろプロレタリアートの独裁ということばを聞いて、またもや彼らにとって薬になる恐怖に陥っている。よろしい、諸君、この独裁がどんなものかを諸君は知りたいのか? パリ・コミューンを見たまえ。あれがプロレタリアートの独裁だったのだ。」

その後、この労働者の壮大な実験は、1905年のロシア・ペトログラード労働者の総稽古を経て、1917年の10月革命で実を結ぶ。

レーニンは、革命前夜に『国家と革命』等においてパリ・コミューンの理論的な考察を行い、トロツキーは防衛戦争の軍事列車で執筆された『テロリズムと共産主義』のなかで、パリ・コミューンの経験と直面するソヴィエト・ロシア防衛を比較している。

スペイン・バルセロナや中国・上海をはじめ世界革命のうねりの中で、何度となくプロレタリア独裁の歴史的実験は続けられて来た。労働者国家におけるスターリニズム支配と衰退、そしてその崩壊にいたったなかで、「一階級が他の一階級を抑圧するための機構」としての国家権力を握るための闘争の結果としての「プロレタリア独裁」という手段を、もういちど具体的な経験と実践の中で、その内実をいかに語り、豊富化するのか。「プロレタリア独裁」とは本来は抑圧された多数者であるプロレタリアの解放を意味する「プロレタリア民主主義」と一体のものであったにもかかわらず、スターリニズムの暴力的支配の中で不当にも歴史的に葬り去られようとしている。

労働の解放と平和の実現というペダルを踏みつづけた先達に学び、新しい社会にむけて走りつづける作業はこれからもつづく。

2009年5月28日 
パリ・コミューンのバリケードに倒れた人々を偲んで
(H)

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