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「いま、北京では銃撃が行われ、人民は血を流している。中華民族は生死の危機という決定的な時期にあり、歴史の重責は一人一人の労働者の双肩にかかっている。暴力に反対し、学生を支持し、民主と科学を発揚させること以外に選択の余地はない。」―――広州工人自治連合会 1989年6月4日(『中国民主化運動資料選』十月評論社 1989年6月)
20年前の1989年6月4日未明、「人民の子弟兵」と呼ばれた人民解放軍が天安門広場に残っていた多数の学生、労働者、市民に対して包囲・発砲した。「天安門事件」「血の日曜日」と呼ばれる民主化運動に対する弾圧である。現在に至るもその犠牲者の数は不明である。
今年はこの天安門事件から20年目に当たるということで、内外のメディアでは、当事者へのインタビューや二十年の検証など、関連する連載が続いている。そのどれもが注目に値するものであり、民主化を求めた当時の青年達の情熱に何度も思いを馳せることは重要だろう。
◆ 1989年という時代
89年は、中国における民主化運動とそれに対する弾圧に加え、東欧におけるスターリニスト体制の動揺と崩壊が世界に衝撃を与え、91年のソ連邦崩壊へとつながっていく。それ以降、資本主義こそが歴史の終着駅であり、それ以外に選択肢はない、というイデオロギーが急速に全世界に拡大した。
▲5月31日に香港で闘われた「天安門20年デモ」
中国共産党は、民主化運動を徹底的に弾圧することで体制を維持した。民主化運動の中でも批判の的になっていた「官僚ブローカー」は、天安門事件後の国際的孤立を打破するためにトウ小平によって打ち出された「さらなる開放政策」と資本のグローバリゼーションの合流のなかで、グロテスクに台頭した。官僚独裁体制は資本主義復活の伝動ベルトとしての役割を十分に果たした。
◆ 民主化運動を闘った労働運動
「北京の春」には、学生のみならず、共産党の厳然たる影響下にあると思われていた国有企業労働者や党官僚の一部、農民、ひいては軍隊からも支持者、参加者が登場した。とりわけ労働者は、党の影響下にあった総工会から自立して独自に「北京工人自治会」など全国の主要都市で自立した組織を結成し、民主化運動の防衛、共産に対する監督などを訴え、天安門広場ではピケットラインを組織し、北京郊外では軍隊の進入を阻止するために奮闘し、全国各地から結集した学生たちの運動を防衛し、幾度にもわたる巨大なデモ行進のなかで力強い隊列を築き上げ、ストライキの呼びかけを全国に発した。
だからこそ、「血の日曜日」以降の弾圧はとりわけ労働者階級に対して徹底したものとなった。90年代半ば以降から本格化する資本主義復活は、共産党による弾圧支配体制のなかで、労働者階級の抵抗をほとんど受けることなく進められてきた。中国における民主化運動への弾圧と資本主義復活は密接不可分であったと言えるだろう。
◆ 一党独裁と経済成長
にもかかわらず、6月3日の「日経新聞」朝刊の社説は次のように述べている。
「(略)天安門事件から、4日で20年になる。この間に中国経済は飛躍的に発展し国際的影響力も高まった。が、民主化も、人権状況の改善も、ほとんど進んでいない。」
天安門事件以降の労働者階級に対する徹底した弾圧こそが、民主化も、人権状況の改善も、ほとんど進んでいないにもかかわらず、経済が飛躍的に発展し国際的影響力も高まった理由である。
社説は続けて次のように述べている。
「権利意識も高まっている。強制的な土地収用や環境破壊、宗教活動の抑圧といった権利侵害に抗議する集団的なデモ活動は、年間9万件を超す。流血をともなう騒動に発展する例も少なくない。」
国有企業改革という名の民営化に抗する国有企業労働者の闘争はどうした? 過酷な労働条件と人権侵害に抗する出稼ぎ労働者の闘争はどうした? パナソニックをはじめ日系企業における争議はどうした? 2007年には全国で40万6000件もの労働争議が起きている。9万件どころではないのだ。
自由を抑圧し、民主主義を圧殺し、人権を葬り去り、民族を抑圧し、労働者を搾取し、自然を破壊して作りだされる経済成長などなんら誇れるものではない。
社説はさらに続けてこう言う。
「こうした変化に共産党政権は有効に対処できていない。立法と行政、さらに司法まで共産党が指導する一党独裁体制では、多様化する人々の利害を吸収し切れない。」
この社説は、労働者の闘争だけでなく、一党独裁体制を支えるもうひとつの重要な要素――中国唯一のナショナルセンター総工会にも触れはしない。
◆ パナソニックのリストラを支えた一党独裁体制
アメリカ発の金融危機による世界不況を受け、メーカー各社は大規模なリストラに乗り出した。6月3日付の「東京新聞」朝刊一面には、「主要製造業20社 半年で8万7000人削減」の大見出し。国内外でグループ企業の労働者をリストラしてきた姿が浮き彫りにされている。なかでも「今年三月末までの削減数が最も多かったのはパナソニックの約2万1000人」であるが、このパナソニックの中国におけるリストラを全面に立って支援したのが、他でもない一党独裁の中国共産党から唯一公認されている総工会である。
ウェブサイト『工会博覧』に「北京松下電子部品の労働争議調査」という記事が掲載されている。日本のメディアでも小さく報道されたが、北京にあるパナソニック関連企業におけるリストラに対して、現地労働者が抗議し、一時、日本から派遣されていた佐藤儀行・総経理(社長)らを6時間にわたり軟禁するという事件があった。記事は組合役員へのインタビューなどで構成されている。
http://www.ghline.com/shownews.asp?id=1882
記事によると2月25日に同社の従業員大会で、佐藤総経理が離職補償案を提示し、離職に応じない者は郊外の密雲県(北京市内から直線距離で約100キロ)へ行ってもらうことになる、と発言、「長年蓄積された住居や昇格などの矛盾が一気に爆発した」(労組委員長)
◆ 総工会が争議で揺れるパナソニックに常駐
そこに登場したのが松下電子部品がある北京市朝陽区の労働社会保障局と区総工会だ。朝陽区総工会は副委員長を現場責任者として、市総工会法律サービスセンターや区総工会基層工作部、区労働争議調整センターなどのスタッフが十数日も現場に張りつき、「企業内労組を指導監督し、協議のための活動を展開し、労組分会と21の労組班を通じて従業員の要望を集め、疑問に答え、従業員にサービスを提供した」。
そして3月6日には「会社の混乱局面を効果的に制御し、企業の生産経営を徐々に正常に戻した」。3月9日までに労働者から66の意見を受け、それをもとに組合意見をまとめ、「その日の午後、組合の代表従業員と企業側が6時間の協議と交渉を行い、組合は1800万元(約2億5千万円)もの補償金を得ることができた」。
だが、1800万元のうち、1000万元は2004年からの残業代を計算し直したものであり、「補償金」の名に値しない。
◆ 労働者の自主的組織をつぶす
さらに重要なことは、勧奨退職が発表されてすぐに、当初対応不能に陥っていた企業内労組を飛び越えて12人の労働者からなる「権利防衛委員会」が結成されており、松下電子部品に対して、在職期間一年に付き2万元の補償金と福利厚生のために積み立てていた内部留保の労働者への分配を要求していたにも関わらず、総工会は争議労働者の自発的な闘争機関である「権利防衛員会」を、「法に従って選出されたものではなく、労働者を代表して企業と対話する権利はない」として3月3日に解散させてしまったことである。
89年「北京の春」への弾圧でも見られたように、官僚支配体制は、労働者の自立的組織を最も恐れ、全力でそれを潰そうとする。
この争議を指導した区総工会の石燕秋副委員長は、インタビューに答えてこう語る。
「われわれは労働者の合法的な権利を守るだけでなく、松下のような法令を順守する企業の健康的な発展のために調和的で安定した環境を作り出す必要があるのです」
世界不況に直面し、労働者の首切りで危機を切り抜けようとするパナソニックのリストラは、共産党一党独裁の労働者管理機構=総工会による「調和的で安定した環境」のもとで強行されたのだ。
◆ 中国と世界の人民のたたかいは必ず勝利する
民主主義をもとめる中国の労働者階級は、天安門事件以降、官僚独裁だけでなく、資本による独裁という二つの敵に対峙しなければならなくなった。天安門事件の名誉回復や犠牲者追悼などに対する当局の弾圧体制は例年になく凶暴を極めている。だがこれは官僚支配体制の強さではなくその弱さを反映するものでしかない。民主主義を求める中国人民のたたかいは必ず勝利する。
ロシア革命や中国革命、あるいはソ連邦崩壊や中国の資本主義化は、究極的には世界規模での階級闘争の帰結として歴史にその軌跡を刻んでいる。グローバル化が結びつけた二つの敵に対峙する中国の労働者階級にとって、全世界の、とりわけ日本の進歩的労働運動との結合は決定的に重要である。1989年という年は、連合結成という戦後日本の労働運動にとっても大きなエポックとなる年であった。この流れは一人日本国内の階級的力関係のみによるものではない。同じように日本の労働運動にとっても中国をはじめ、全世界の進歩的労働運動との連帯が今後も大きな意味をなすことは変わりないだろう。
「われわれの心には、凶弾に倒れていった青年たちの『インターナショナル』と『義勇軍行進曲』の歌声が焼きついている。天安門広場で最後まで打ち振られ続けた赤旗が、鮮やかに焼きついている。この遺志を受け継ぐことこそが、われわれの任務でなければならない。」―――1989年6月6日 日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)中央委員会政治局
◆ 香港では8000人がデモ
5月31日に香港で行われた「天安門事件を忘れない」記念デモには8000人が参加し、1992年以来の最大規模となった。昨年のデモ参加者は1000人と、その風化が危ぶまれていたが、中国国内で唯一、天安門事件の犠牲者を追悼し記念する行事をおこなうことができる香港民衆の民主化を求める意志は健在だ。香港政府のトップである曽蔭権行政長官は、5月14日の立法会での答弁で、「事件が発生してから長い年月が経った。その間、国は発展し、香港も経済的繁栄を手にした。私は香港人が天安門事件が国家の発展を作り出したと客観的に評価していると信じている。」「私の意見は香港人を代表したものだ」と語り、民衆の反発を買っていた。6月4日夜には数万人規模のロウソク追悼集会が予定されている。
2009年6月4日未明
(H)