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インターナショナル・ビューポイント IV Online magazine : IV433 - February 2011
エジプト情勢のスリリングな展開の説明に資するために、二月四日にファルーク・スレーリアがすぐれたアラブ学者・活動家のジルベール・アシュカルにインタビューした。
http://www.internationalviewpoint.org/spip.php?article1985
――二月一日にムバラクが行った次の選挙に立候補しないという確約は、運動の勝利を示すものだと思いますか。それとも、翌日タハリール広場にいたデモ参加者が親ムバラク勢力に暴力的に襲撃されたことに示されるように、大衆を鎮静化させるためのたんなるトリックなのでしょうか。
エジプトの民衆的な反体制運動の高揚は二月一日に最初の頂点に達し、その夜のムバラクの譲歩声明を引き出しました。それは民衆の抗議の力を認識したためであり、野党勢力と交渉する政府の意向を示した声明で示されたように、独裁者の側の明白な後退です。これらは、まさしくこうした権威主義的体制の重大な譲歩であり、民衆動員の重要性を証拠づけるものでした。ムバラクは、昨年の議会選挙での不正行為に対する現在の法的調査をスピードアップするとさえ確約しました。
彼ははっきりそう述べましたが、それ以上のことをしようとはしていません。軍を自分の側にしっかりと立たせた上で彼は大衆運動を鎮めようとしており、ムバラクに政治システム改革を訴えている西側諸国もそうです。彼は、辞任という点を除けば、エジプトの抗議運動が一月二五日に始まった時に最初に定式化した中心的要求項目の一部を受け入れました。しかし運動はそれ以後ラディカル化し、ムバラクの辞任を外したいかなる要求も満足できるものではないという点にまで達し、運動に参加する多くの人びとは彼を裁判にかけることまで要求しました。
さらに体制のあらゆる機関が今や運動によって正統性を欠いたものとして非難されています――行政機関とともに立法機関、つまり議会も非難されているのです。その結果、野党勢力の一部は、制憲議会選挙を主催するために憲法裁判所長官を暫定大統領に任命するよう求めています。別の者は、野党勢力の全国委員会がこの移行期を監督することまで望んでいます。もちろんこうした要求は、ラディカルな民主主義的展望を構成するものです。こうした全面的変革を強制するためには、大衆運動が体制の根幹である軍を解体、あるいは不安定化させる必要があります。
――エジプト軍はムバラクを支援しているのですか。
エジプトは、パキスタンやトルコのような類似の諸国よりも、本質的なところでは文民的外観を持った軍事独裁なのです、この文民的外観も軍出身者によって作られています。問題は、ムスリム同胞団をはじめとするエジプトの反政府派のほとんどが、軍とその「善意」とは言わないまでも表向きの「中立性」という幻想を織り上げていることです。かれらは軍が誠実な仲介者だと描き出してきました。
しかし制度としての軍は、まったく「中立」ではありません。軍がいまだ運動を弾圧するために利用されていないのは、ムバラクとのその幕僚たちが、そうした方法に訴えるのは適切ではないと考えてきたというだけの理由によります。おそらくかれらは、兵士たちが弾圧に乗り気にならないことを恐れたのでしょう。体制側が、抗議運動に対して軍ではなく、仕組まれた対抗デモとゴロツキによる襲撃に依拠したのはそのためです。政権は、市民間の衝突を作り出してエジプトが二つの陣営に引き裂かれていると見せつけ、軍がこの情勢の「調停役」として介入することを正当化しようとしているのです。
もし政権側がかなりの対抗的運動を動員して大規模な激突を引き起こすことになれば、軍は一歩踏み出し、ムバラクの確約が実行されるよう約束しながら「ゲームは終わった。みんなすぐに家に帰れ」と語るでしょう。多くの識者と同様に、私はこの二日間、こうした策略が抗議運動を弱めることに成功するのではないかと恐れてきましたが、今日(二月四日)の「追放の日」の大動員で取り戻しができています。軍は民衆決起にたいしてさらに重要な譲歩をすることが必要となるでしょう。
――あなたが野党と言う時、どのような勢力がふくまれているのでしょうか。もちろん、私たちはムスリム同胞団やエルバラダイについては聞いています。左翼勢力や労働組合といった別の勢力もいるのでしょうか。
エジプトの反対派勢力には広範な隊列が含まれています。ワフド党などの諸政党があり、これらはリベラル野党と呼ばれるものを構成しています。それからムスリム同胞団が占めるグレーゾーンがあります。ムスリム同胞団は合法的地位を持ってはいませんが、政権によって寛大に取り扱われています。その全組織構造は目にすることができるものであり、地下勢力ではありません。
ムスリム同胞団は、たしかにこれまでのところ野党の最大勢力です。ムバラク政権が米国の圧力により、二〇〇五年の議会選挙で野党に一定のスペースを与えた時、「無所属」として立候補したムスリム同胞団は、あらゆる障害にもかかわらず八八人の議員を当選させ、全議席の二〇%を獲得しました。ムバラク政権が二〇〇五年に開いた限定されたスペースを閉じる決定を行った後、昨年一一月と一二月に行われた直近の選挙では、ムスリム同胞団は一人を除いてすべての議席を失い、議会からはほとんど消え去りました。
左翼の中で最大のものはタガンマア党で、かれらは合法的地位を享受して五人の議員を持っています。かれらはナセル主義の遺産に言及しています。その隊伍の中では共産党員が抜きんでた存在でした。同党は基本的には改良主義左翼政党であり、政権への脅威とは見なされていません。それどころか、いくつかの場合においてきわめて体制に従順でした。エジプトには小さいけれども活力のある左翼ナセル主義者やラディカル左翼も存在しており、かれらは大衆運動にきわめて強く関わっています。
それからキファーヤなどの「市民社会」運動があります。キファーヤは二〇〇〇年のパレスチナ第二次インティファーダへの連帯運動を主導したさまざまな反対派勢力の活動家たちの連合です。かれらはその後イラク侵略に反対し、後にムバラク政権に反対する民主主義キャンペーン運動として有名になりました。
エジプトでは二〇〇六年から二〇〇九年にかけて、いくつかのきわめてすばらしい大衆的労働者ストライキをふくむ産業労働者の行動が広がりました。社会的急進化の結果として生まれた直近の一、二の例外を除けばエジプトには独立労組が存在しません。労働者階級の多くは、自主的代表や組織がもたらす利益を持っていません。労働者に連帯する二〇〇八年四月六日のゼネストの呼びかけの試みは、四月六日青年運動の結成をもたらしました。こうした自主的組織(アソシエーション)やキファーヤは、キャンペーンを軸にしたグループであり政党ではありません。そしてこれらは、どの組織にも所属していない活動家とともに、さまざまな政治組織に加わっている人びとを含んでいます。
エルバラダイがIAEA(国際原子力機関)事務局長としての三期目の任務を終えて二〇〇九年にエジプトに帰ってきた時、二〇〇五年のノーベル平和賞受賞者である彼の名声によって、リベラル派と左派の連合が彼を中心に結集し、ムスリム同胞団は消極的な留保の立場をとりました。野党の多くは、エルバラダイを国際的評価とコネクションを持った強力な候補であり、したがってムバラクあるいは彼の息子に対する信頼できる大統領候補だと見なしたのです。こうしてエルバラダイは、反対派の多くを結集し、政治勢力と個人の再編を進めうる人物になりました。かれらは、変革のための全国協会を結成しました。
こうした勢力の全隊伍が、現在の決起に参加しています。しかし、街頭を埋めた民衆の圧倒的多数はどのような政治組織にも属してはいません。それは、専制的体制の下で暮らしてきた巨万の大衆の怒りの噴出であり、まとわりつく失業の中での食料、石油、電気など基礎的必需品価格の急激な高騰に示される、経済的条件の悪化によって培養されたものです。こうした事態はエジプトだけではなく中東地域のどこでも同様であり、チュニジアで始まった反乱の火が多くのアラブ諸国にこれほど速やかに広がったのはそのためです。
――エルバラダイは本当に人気があるのでしょうか、それとも彼は、体制を保持しつつその顔を変えようとする、エジプト人の運動にとってのミール・ホセイン・ムーサヴィ(訳注:イランの元首相で二〇〇九年の大統領選挙に改革派として立候補)にどこか似通った存在なのでしょうか。
最初に、私はあなたが述べられたようなムーサヴィの性格づけには同意しません。確かにミール・ホセイン・ムーサヴィは、その言葉が社会革命を意味するのならば「体制の変革」を望んでいませんでした。しかし、そこには明確に、パサダラン(革命防衛隊)とアフマディネジャドに代表される勢力と、ムーサヴィが代表するリベラル改革派的展望で合体した別の勢力が先頭に立つ、権威主義的社会勢力間の激突が存在していました。それは政治的統治のパターンという意味において、実にある種の「体制」に関する衝突だったのです。
ムハンマド・エルバラダイは、彼の国エジプトを、現在の独裁から自由選挙・政治的自由を持った自由民主主義体制に移行させようと願う真のリベラル派です。かくも広範な政治勢力の隊伍が彼と協力しようと願うのは、エルバラダイは現存体制に対する最も信頼しうるオルタナティブであり、彼は彼自身の組織された選挙民に命令したりするような人物ではなく、したがって民主主義的変革にふさわしい表看板だと、かれらが考えているからです。
あなたのアナロジーに立ち返るならば、エルバラダイを、イラン政権の一員であり一九七九年のイスラム革命を指導した男の一人だったムーサヴィになぞらえることはできません。ムーサヴィは、二〇〇九年の大衆的抗議運動の指導者として登場する以前からイランに彼自身の追随者を持っていました。エジプトでは、エルバラダイは同様な役割を果たすことができないし、そのように振る舞うふりをすることもしていません。彼は諸勢力の広範な隊伍から支持されていますが、誰も彼を指導者としては見ていません。
はじめのうちムスリム同胞団がエルバラダイに対して保留的態度を取っていたのは、エルバラダイが宗教的志向を持たず、かれらの嗜好からすれば余りにも政教分離的色彩が強いという事実と部分的に関係しています。さらにムスリム同胞団は、何年にもわたって政権との間で不明瞭な関係を育んできました。彼らがエルバラダイを全面的に支援するならば、きわめて長い期間にわたって取り引きしてきたムバラク政権との交渉の余地を狭めてしまいます。政権は社会・文化的側面でかれらイスラム同胞団に多くのことを認めてきました。一例をあげればイスラム的検閲を強化したことです。同胞団をなだめるために政権がそうしたことをするのは、とてもたやすいことです。その結果エジプトは、一九五〇年代、六〇年代にガマル・アブドゥル・ナセルの下で確立してきた政教分離から大きく後退しました。
ムスリム同胞団の目標は、議会選挙と大統領選挙の双方で自由選挙に参加することをかれらに認める民主主義的変革を確保することです。かれらがエジプトで再生産することを切望しているモデルはトルコです。トルコでは陸軍が政治システムの主要な支柱であり続け、民主化プロセスは軍部によって統制されたものでした。それにもかかわらず、このプロセスはイスラム主義保守政党であるAKPが選挙で勝利することを許容するスペースを作りだしました。かれらは政府打倒に熱中していません。こうしてかれらは、軍の機嫌をとり、軍の敵対をもたらすようなジェスチャーを避けるよう注意しているのです。かれらは権力の漸次的獲得戦略に固執しています。かれらは漸進主義者であってラディカル派ではありません。
――西側メディアは、中東における民主主義はイスラム原理主義者の政権獲得をもたらすという事態をほのめかしています。私たちは、長年亡命していたラシェド・ガンヌーシのチュニジアへの凱旋帰国を見てきました。ムスリム同胞団もエジプトの選挙で勝利しそうです。この点についてのあなたの意見は?
すべての問題に立ち返ってみましょう。私が言いたいのは、宗教的原理主義がこうした空間を埋めるのは民主主義の欠如による、ということです。弾圧や政治的自由の欠如は、社会的不正の悪化と経済の低迷という環境の中で左翼、労働者階級やフェミニストの運動が発展する可能性を大きく切り縮めます。こうした条件の下では、大衆的抗議の表現の最も簡単な場は、最も手頃でオープンに使える回路ということになります。このようにして反対派が、宗教的イデオロギーと綱領に固執する勢力によって支配されることになります。
私はこうした諸勢力が自由に自らの見解を擁護できる社会を切望していますが、それは同時に、すべての政治潮流間のオープンで民主主義的なイデオロギー競争ができる社会でもあります。中東社会が政教分離の道に戻り、一九五〇年代、六〇年代に広がっていた宗教の政治的利用への民衆的批判・不信に立ち返るためには、長期にわたる民主主義の実践によってのみ可能となる、ある種の政治的教育を獲得することが必要です。
そうは言っても、宗教政党の役割は国ごとに違っています。確かにラシェド・ガンヌーシはチュニス空港に到着したとき数万人もの民衆に歓迎されました。しかし彼のナフダ運動のチュニジアでの影響力は、エジプトでのムスリム同胞団よりもはるかに小さいのです。もちろんこれは部分的には、アルナフダが一九九〇年代以来厳しい弾圧を受けてきたためです。しかしそれは、チュニジア社会がエジプトよりも宗教的原理主義思想への傾斜が少ないためでもあります。それは西欧化と教育の度合いが高いためであり、またこの国の歴史によるものです。
しかしこの地域全体を通じて、イスラム主義政党が現存体制に反対する主要勢力になったことは疑いないことです。三〇年以上にわたって優勢になっていた風向きを変えるには長期におよぶ民主主義の経験が必要でしょう。オルタナティブへの教訓となるのはアルジェリアのシナリオです。アルジェリアでは選挙のプロセスが一九九二年の軍事クーデターによって妨げられ、アルジェリアが依然としてその対価を支払っている破滅的な内戦をもたらしました。
ここ数週間のアラブ民衆の目を見張るような民主主義的大望の大波は、きわめて励ましとなる出来事です。チュニジアでもエジプトでもどこでも、民衆の抗議は宗教的綱領によるものではなく、主要に宗教勢力によって指導されたものでもありませんでした。これらは民主主義的運動であり、民主主義への強い意思を示したものです。中東諸国での世論調査では、ムスリム諸国と民主主義は「両立しない」という通常の「オリエンタリスト」的偏見とはうらはらに、長年にわたって民主主義が価値として高率の支持を集めています。現在進行している事態は、自由を剥奪されたあらゆる人びとは、かれらがどのような「文化的領域」に属していようとも、ついには民主主義を求めて立ち上がるということを、再び立証するものです。
将来における中東の自由選挙において誰が立候補し、誰が勝利しようとも、民主主義への要求がきわめて強まった社会に直面しなければならないでしょう。どのような政党――その綱領がどのようなものであれ――であれ、こうした大望をハイジャックすることはきわめて難しくなるでしょう。私はそうした策謀が不可能だと言いたいのではありません。現在の出来事の主要な成果の一つは、民衆の民主主義への大望が勢いよく押し上げられたことです。それは、左翼がオルタナティブとして自らを再建する上で理想的な条件を作り出しているのです。
▼ファルーク・スレーリアは著名なラディカル派ジャーナリストで、パキスタン労働党(LPP)の指導的メンバー。LPPのブックレット『政治的イスラムの高揚』の著者で、タリク・アリ著『原理主義の衝突』ウルドゥ語版訳者。
▼ジルベール・アシュカルはレバノン出身でロンドンのオリエント・アフリカ研究スクール政治学教員。彼のベストセラー『野蛮の衝突』(邦訳・作品社刊)の増補改訂版が二〇〇六年に刊行された。ノーム・チョムスキーとの中東問題に関する対話‘Perilous
Power’(『危険なパワー』)、彼は’The 33-Day War: Israel’s War on
Hezbollah and It’s Consequence’
(「レバノンでのイスラエルの対ヒズボラ33日間戦争とその結果」)の共著者。彼の最新の著書は’The Arabs and the Holocaust: Arab-Israel War of Narratives’
,Metropolitan Books, New York, 2010.
(「インターナショナルビューポイント」2011年2月号)