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 いわゆる「豚インフルエンザ」=新型インフルエンザは、日本でも国内感染者がでるなど、さらに世界的に拡大している。しかしセンセーショナルな報道の洪水の中で、その背後にある事態の本質は解明されていない。

 ここに掲載されるメキシコPRT(革命的労働者党)の声明は、新型インフルエンザの患者が最初に発生したメキシコの例をベースに、この流行が一連の新自由主義政策=医療・保健部門の民営化、多国籍企業・大企業の支配する農業という社会システムとの関係で捉えられなければならないことを指摘し、かつ「保健危機」を口実に人権を剥奪し、警察の治安支配を強めようとしている政府を厳しく批判している。

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▲メキシコ・ラグロリア村にあるスミスフィールド・フーズ社の養豚工場
(遠くに白く見える巨大な建物)から排出された1万5千頭の豚のし尿プール


 同時に、声明は、自主的に予防措置、患者の救援、相互扶助を組織している民衆の草の根からの活動を高く評価し、PRTもそうした活動の先頭にたっていることを紹介している。人びとの生命・健康・安全よりも企業の利益に重きを置く資本主義との闘いを通じて「もう一つのメキシコ」へ。これが声明を貫く基調である。 「かけはし」5月18日号に掲載されたATTACフランス・農民連盟の声明とともに参考にしてください。

 なおPRTは、LUS(統一社会主義同盟)とともに第四インターナショナルのメキシコにおける支持組織。
 
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豚インフルエンザのエピデミック(大流行)に関する声明

              メキシコPRT(革命的労働者党)

 インフルエンザのエピデミック(大流行)がもたらした保健緊急事態は、公衆保健にとって重大であることに加えて、重要な政治的・社会的影響を持つものであり、矛盾に満ちた政府の説明が引き起こす混乱と不信の中で、それについての説明が必要である。科学的情報、真実、そして政治的批判への道を開くことも必要である。


予測できた大流行

 ほんの八日前の2009年4月24日、ホセ・アンゲル・コルドバ・ヴィリャロボス保健相とインチキ大統領フェリペ・カルデロンは、豚インフルエンザのエピデミック(大流行)がすでに多くの命を奪い、メキシコ共和国の幾つかの州へと拡大したという理由で保健緊急事態を宣言した。この宣言は必要であったとはいえ遅すぎたものである。彼らがとった一連の措置は正しい方向を示したものであったとしても限定されたものであり、かつ民主的自由への脅威(インフルエンザの疑いがある家屋を取り壊す可能性など)を伴ったものであり、また政治的レベルでも保健システムのレベルでも権威主義的で傲慢な考え方に方向づけられている。保健システムの問題は、災害状況に直面した以前の政府のように、広範かつ効果的な対応を必要とする危機的情勢(1985年の地震、わが国の領域――カンクン、タバスコ、チアパス、シナロア――を襲った洪水とハリケーン)に回答を示す能力のないことを示している。

 現在の豚インフルエンザのエピデミックに先だって、専門家や、ベラクルス州ラ・グロリアのような豚、鶏など食肉生産業の巨大複合施設が置かれている地域の住民は、さまざまな警告を発していた。しかし政府はそうした警告に耳を閉ざし、いい加減に対応し、健康チェックの実現、生産基準の適用、養鶏・養豚農場への疫学的監視を求めて批判しただけの人びとを弾圧した。さらに大流行が始まった時、政府はその重大性を低め、何も心配することはないと語ったのである。保健緊急事態宣言の前日、政府は確実なインフルエンザ患者のみを治療すると宣言し、レベル3のパンデミック(世界的大流行)というWTO(世界保健機構)が発した世界規模の警報のデータと矛盾する情報を隠ぺいしたのである。

 人びとは再び欺かれ、政府とその措置に不信を抱いた。しかしそれはいわれのない不信ではなかった。並行して、体験にもとづく行動と情報交換の広範なネットワークが発展した。それは1985年のメキシコシティ地震当時と同様に、わが国民と住民、とりわけ底辺の人びとが獲得し、発展させる能力を持った高度の連帯と責任を示している。そこには人間的で、差異を尊重し、きわめて創造的な新しい世界への突破口が共有されており、それは腐敗した大物や統治者の世界と対決している。自分たちの地域の患者たちの間で、町や社会組織の基礎単位の中で、自ら顔を突き合わせて患者、親戚、友人たちの苦痛や要求に応えている労働者、主婦、学生、保健医療専門家たちは、支援し、助言し、回答や説明を考えだし、共感を作り出している。

 このような行動、このような経験から、変革の必要性、新しい保健システムの構築、異なった秩序、可能でありすでに必要なものでもあるもう一つのメキシコ、すなわち多数の人びとの必要を優先し、利益よりも命を優先し、自らの文化、その組織化の方法に配慮するメキシコを求める意識が生み出されており、また逆境に直面する中で、そして頂点にいる者、大企業の経営者とその政府に日常的に対決するような世界に直面する中で、集団的イニシアチブを支持する意識が生み出されている。

 PRT(革命的労働者党)は、新しい保健システムを構築し、この挑戦に効果的かつ適切に対応するインフルエンザの大流行を封じ込める予防的行動と、人権と民主主義的自由への無制限の尊重を通じて、こうした展望に自ら関与してきた。さらにPRTは、救うことができた人命を奪い、避けることができた被害をもたらした遅れた対応に責任がある者の処罰を呼びかける。

 保健相はその地位から解任されるべきであり、原因と予防と統制措置の徹底的調査がなされるべきである。それは、この三十年間にわたって基準となりメキシコならびに世界に強制された新自由主義モデルによる被害、すなわち多くの人命を奪い、幾千・幾万もの被害者をもたらした健康・「自然」災害を阻止するためにも必要である。

 先行事態

  二〇〇九年四月四日の「ラ・ホルナーダ」紙は、豚と聖人を描き「危険 キャロル農場」と記したプラカードを持ってデモをしている少年の写真と共に、ラ・グロリア地区での闘争についての記事を掲載した。このデモに先だって、2008年末に地域の保健センターは住民の60%以上が原因不明の異常な呼吸器感染にかかっていることを発見した。実際、三月以後、異常な呼吸器感染はペロテやハラパにも現れたが、これに対して警戒システムは必要な注意を払わなかった。

 バルセロナの動物保健調査センターのマリア・モントヤによれば、インフルエンザの型を確認するために取られる時間は、死者の数とエピデミックの進展にとって決定的な要素である。豚インフルエンザの最初のケースが確認されたのは、四月一日になってからではなかった。当初それらは、間違って診断されていた。最初それらの症状はウィルスA型:H2N3の呼吸器感染と認識されていたためである。しかし四歳の少年の保存血液が再び分析されて、診断は訂正された。感染した血清の分類によって、現在のエピデミックはA型:H1N1によるものだったのである。これらの事実の判定前にも、バチョコ農場会社が所有する養鶏場での鳥インフルエンザの発生についての情報は隠されていた。これらは民衆には隠されていたのである。

 今や、豚インフルエンザウィルスがヒト、豚、鳥のゲノムを持っていることが知られている。それは異なった種の間でのウィルス感染による遺伝子移動が行われていることを意味している。これらは、ベラクルス州のペロテに養豚・養鶏場を持つ巨大精肉企業の生産条件によっていっそう発生しやすくなっている。しかし、すでに世界中の多くの場所で警告が発せられていた。このウィルスがもともと地域的なものであったのか輸入されたものであったのかを問わずとも、こうした農場においてウィルスの再生産と遺伝子移動の諸条件が存在しており、少なくともそれがこのタイプのインフルエンザ大流行の機会を提供したというのが事実である。

キャロル農場近くでの異常な呼吸器感染の存在に対する地方当局の摘発、養鶏場での鳥インフルエンザ発生後の警告という、この地域で起きた二度にわたる注意の呼びかけにもかかわらず、他の地域、とりわけメキシコシティでの病気の蔓延と幾人かの死者を伴った重症の肺炎の発生まで、疫学保健警告システムは反応を示さなかった。メキシコシティは人口密集地域であるために、迅速な予防の方法が欠けている状況では広範かつ急速な感染の拡大が引き起こされてしまうため、なんらかの対応を取らざるをえなかったのである。

 当局の対処の遅れ

 保健相の最初の声明は、季節的なインフルエンザとして対処するものであり、事態が発展しても心配する必要はないというものであったが、それはすでに保健非常事態となっていた問題への対応を遅らせることになった。いずれにせよメキシコで提示された統計は、他の諸国、とりわけカナダ、米国だけではなく、スペイン、英国、ニュージーランドなどの諸国で出現したことで世界保健機構(WHO)が後に提示したものとは違っていた。メキシコの国境を超えた発症は、パンデミックをレベル3、そしてレベル4と発表する動機となった(移入による発症に加えて、とりわけ米国、スペインでの地元感染という国際的流行)。

 感染者の数が飛躍的に拡大すると、内外の世論の圧力がかかる前に、メキシコ政府と保健省は保健警報と病気の蔓延を抑えるための一連の措置を発表せざるをえなかった。これらすべては、人の健康よりも利益が卓越するものであることを示している。豚肉、鶏肉、卵を生産する超国籍企業ならびに国内企業は、民衆の健康や生命を危険にさらして基準や規制をすりぬけることができる。健康モニターや自分たちがかかった症状の迅速な診断を求めた患者たちの告発や必要は顧慮されていない。モニターに関するものであれ、獣医学的あるいは人間の生命のレベルであれ、保健システムは個々の企業がビジネスを続けられるようにするために目を閉ざしている。こうした理由から、現在の保健危機は食糧のための豚や鶏の工業的生産の結果を示しており、それは資本主義の非合理の表現であり、文明の危機のシグナルであるとわれわれは述べることができる。

 民衆の信頼の不在

 他方、わが国における伝染病(恐水病、結核、マラリアなど)の予防と抑止の大失敗は言うに及ばず、情報操作や詐欺的行為(カルデロンの大統領「選出」や経済危機は「軽い風邪」といった言辞を思い起こすだけで十分だ)の先行事例は、民衆が当局の説明を信頼せず、拒否し、独自の対応を取っていることを意味する。なぜなら、発表には矛盾があり、数値の隠ぺいもあったからである。こうして不安をかりたてるキャンペーンや、人権と民主主義的自由に傷を負わせる予防的行動措置(患者を出した疑いがある家屋の取り壊し、診断のスピードアップ、隔離)の組み込みにも関わらず、民衆の回答は、とりわけメキシコシティにおいて模範的なものだった。

発症エリアについての住民の疑問は、とりわけこのまがいものの政府の経験から生まれた、政府の報告への納得のいく、正当化されうる、正しい不信と関連している。政府への正当な不信は、「われわれは操作を目的にした作り話に直面しており、これが本物のエピデミックだとしても、それは権威主義的やり方で扱われ、警察や抑圧的措置の強化がもくろまれ、動員を解除し、個人的解決と患者を家族が住む家屋の中に閉じ込めるという考え方を促す情報操作が行われている」と一部の人びとに考えさせる状況をもたらしている。

このエピデミックが認識され、保健非常事態が宣言されるや、予防と統御の措置は人びとによって受容され、各コミュニティーや社会組織間での情報の促進や必要な行動がとられることになった。とりわけメキシコシティでの振る舞いは、責任と連帯を特徴とするものであり、もう一つの日常生活と人間的交流の組織化のあり方をめざす力学が発展したが、それはより小さな規模で他の地方でも起きている。

いずれにせよ、連邦政府特別行政区(首都であるメキシコシティ)の有する保健設備や首都の政府の確固とした対応の下で、この統御措置によって大流行はやわらいできた。しかし注目を引いた不運な出来事や誤りもあり、保護されない部門の労働者たちへの差別さえ生まれている。清掃、警備、メンテナンスの民間委託の中で、ほとんど資産をもたず社会的給付もない労働者の住民は、病気になればより悪い状況に直面しなければならなかった。さらに保健サービスへのアクセスやその質はそれ自体、病気になった人びとの社会的階層に従って差別化されているのである。

同時に不安を駆り立てるキャンペーンは、国内の幾つかの地域で「アンチチランガ」(メキシコシティ住民への反発)反応をも生み出した(たとえばゲレロ州ではDF[首都]のプレートを付けた一組の自動車が投石された)。それは外国でのメキシコ人に対する差別的措置に匹敵するものである。これはやってはならない、深刻に反動的なレイシスト的根拠を持つ間違った反応である。なぜならそうした対応は、病気の大流行の責任を帰すべきでない市や、地域、さらに人種などに責任を負わせ、住民の健康よりも利潤を優先する資本主義の非合理や、正当性を持たず民衆の多数の利害に敵対し、少数の国内外の資本家の利害に屈服し、より権威主義的で、抑圧的で、警察的措置によって危機に対処している政府の責任を問わないやり方だからである。

当初、保健省は確認された感染者とその疑いのある者の数を示して公的な注意を促していたが、今では確認された症例のみを発表し、流行の影響についての印象を弱めている。それは実際には、再度の情報隠ぺいなのである。

それにもかかわらず、患者の死亡率は、わが国の様々な地域間の関係でも、さらに大きく国際的レベルでも異なったものになっている。少なくともわれわれがより多くの情報を得るまでは、メキシコで死亡率が最も低いのは首都であり、最も高いのはサンルイス・ポトシである。他方、米国と欧州では死亡率はメキシコよりはるかに低い。この流行が新ウィルスによって引き起こされたものである以上、この死亡率の相違が異なった諸国間の、あるいはメキシコの地域間の住民の体質の相違を反映しているなどと考えることはできない。むしろこの差異は、注意やアクセス可能性の質的な欠如(あるいは病気が治療される際の人的資源、診断や治療上の手段・資源の欠如)と関連している。

新自由主義モデルと健康にとっての意味

 感染媒体の免疫性が新しいものである今回のような事態の発生には、新しいワクチンの製造が必要となる。メキシコ政府は、連邦国家が所有するワクチン製造プラントを解体し、緊急事態に対する独自の国民的対処を妨げるステップを踏み出していた。メキシコは1950年代、60年代においては、使用されるワクチンの大部分を生産する研究所を所有していた。衛生・ウィルス研究機関はこの生産能力を持っていたが、サリナス政権とエルネスト・セディジョ政権の下でこの能力は解体され、研究機関は基本的なワクチン予防スキームの十二のワクチンのうち二種類しか生産しない寄生虫学研究所の創設に併合されてしまった。

 先行する事例、それとともにウィルス学、免疫学、ゲノムならびに分子生物学研究の量と質は、必要とされるワクチンを生産するだけの科学的・技術的能力がメキシコに存在することを示している。しかし政府は、明白な保健上の含みを持つ技術的・科学的屈服のあからさまな政策により、それらのワクチンを輸入し超国籍製薬企業を利することを選んだ。ブラジルやキューバのような国はそれとは逆に、この分野での自給を維持するために投資した。そしてこの「第三世界」の従属は、あるモデル、すなわち新自由主義モデルとの接合を特徴とする経済政策と優先順位の選択を反映していることを示したのである。今やワクチンの生産が必要になった。たとえそれには数カ月かかり、現在の流行を予防できないとしてもである。しかし流行の反復を避けるため、メキシコおよび他の諸国での将来の発生と、他国への波及への予防のためにはワクチン製造はきわめて有効である。

 さらに努力を倍加し、食肉生産(ついでに言えば豚と鶏だけではない)において立証基準と保健監視規制に適合させることが必要になる。この現象が市場の優位性に社会を従属させる全般的なアグロビジネス化になりがちだからである。たとえば、電力エネルギーを発生させるエタノール生産のためのサトウキビやトウモロコシ栽培、そして自由貿易協定の枠組みの中でのトウモロコシなどの輸入に影響された分野への移植遺伝子の導入である。

 またわれわれはこの地において、商品化された教育モデルと保健・安全サービスの民営化のさまざまな民営化の一環として科学的研究への投資を削減してきた新自由主義政策の長年にわたる結果を経験している。

 しかしすべてが否定的であるわけではない。多くの労働者組織は、政府と保健省の行動の悪質な側面への批判を行いつつ、このエピデミックを統御し予防する措置への支援を示してきた。経済活動での部分的な失業の措置は、たとえば保育関連で民衆間のさまざまなタイプの共有された共通の反応を引き起こした。このような形で取られた諸措置は、すでに激しい打撃を受けた経済に否定的な影響を与えることは疑いないが、その影響は異なった社会諸階級に対してさまざま異なった形を取る。一部の人びとは日々の生活に厳しい影響を見出すが、別の人びとは受益者となる(「パニック買い」で儲けるスーパーマーケットや、薬品、非常食、マスクや消毒剤など保健・予防関連の製品を生産する企業)。

 他方、家屋の不可侵性、デモや集会の権利などに関連した民主主義的自由への制限的条項に特別の注意が払われるべきである。それは保健緊急事態を口実にした、権威主義と基本的諸権利への抑圧へのステップであり、したがってそれは、以前は麻薬密輸と違法行為への闘いを名目に、現在はエピデミックの予防措置を名目に正当化された軍事的警察的国家へのステップである。

 われわれは革命家として、権利の侵害と自由の制限に対して全面的な反対を宣言する。同時にわれわれは、あらゆるタイプの差別のない民衆の尊厳と自由を尊重し、エピデミックの予防と統御のための措置への完全な連帯を宣言する。われわれは何よりも、このエピデミックの中で最も被害を受けやすいわれわれの子どもたち、若い人たち、妊娠女性の世話をする責任を当然のこととして引き受けるからである。

 政治や保健活動におけるあらゆる行動と同様に、われわれはこの中で革命家として人の生命を長らえさせる――すなわち全面的な尊厳、自由、公正、平等を貫き、幸福を追求し、自然と調和しながらすべての者が適応する世界を建設するのに十分な生命を長らえさせるために闘う。そしてわれわれは、すでに国際的となっているこのエピデミックの影響をやわらげるためにふさわしい措置を支援し、促すための責任を引き受ける。

 保健緊急事態のただ中で、そしてその直後に、確実に新しい社会的闘争が発展するだろう。そうした闘いを推進し、課題に対応した広範で統一的な組織を促すことが必要になるだろう。またわれわれは、人権を擁護するための努力を倍加しなければならない。きわめて多数の囚人、手配者、行方不明者をもたらした以前の不正・不処罰事例を考慮すれば、現在採択された民主主義的・政治的権利を制限する立法措置や政府の措置に新たに反対することを必要となる。

 しかし社会的領域や民衆経済の擁護が重要である。すでに経済不況、失業、労働者賃金とその家族の購買力のいっそうの損失をこうむっている上に、保健危機の再度の爆発による脅威を受けている勤労民衆の権利と生活水準が攻撃を受けているまさにその時、すでに二十一カ月に達しているカナネア鉱山労働者のストライキのような、いっそうの支援を要する模範的な闘いが継続しているからである。

 グローバリゼーションの支持者は、今や重大な挑戦に直面している。彼らは自らの経済モデルの大失敗と、ますます頻繁に起きる緊急事態や自然災害(津波、ニューオーリンズで起きたような洪水、地震、病気の緊急的まん延)に同時に直面している。それは資本主義システムの存続可能性や、安全、食糧、労働、生きるに値する生活、そして生存自体の継続可能性を提供する可能性への挑戦である。

 結論を述べよう。資本主義がほとんどの人びとの最も基本的な必要すら満たすことができないこと、新しい世界が必要であり、そのモデルはまず第一にほとんどの人びとの必要に配慮するものであることは、日々明らかになっている。もう一つの世界は危機の中から生まれ、生活への愛着と魅惑に基づいた共通の世界で共有されている。それはもう一つの道、もう一つの世界、もう一つのメキシコがもちろん可能であり、それだけではなく緊急に必要であることを示している。それは男女ならびに民族相互の尊重と連帯に基づく世界である。(2009年4月30日、メキシコ連邦行政区)

 (PRT[革命的労働者党]は、第四インターナショナルを支持するメキシコの政党)

(「インターナショナルビューポイント」09年5月号)

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