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2002年9月の小泉訪朝と「ピョンヤン宣言」から七年が経過した。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の最高指導者・金正日による「日本人拉致」犯罪告白と「五人の生存者」の帰還は、日本の国内に大きな衝撃を呼び起こし、北朝鮮を批判する言論が満ち溢れた。それは北朝鮮に対する「軍事攻撃」をも正当化するレベルへとエスカレートした。
それまで北朝鮮による「拉致」という国家犯罪を否定し、多かれ少なかれ北朝鮮を擁護してきた多くの左翼は沈黙するか、日本による朝鮮植民地支配と強制連行の歴史と北朝鮮による拉致犯罪を並列させて、後者を相対化する言説にしがみついた。このような言論状況の中で、太田昌国の『拉致異論』(太田出版。現在、河出文庫で刊行)は出色のものだった。
太田は、同書の中で排外主義的な「日本人の物語」の沸騰を批判するとともに、異常とも言うべき北朝鮮の「収容所国家」の現実に向き合うことを拒否してきた左翼のあり方を主体的にえぐりだす努力を行った。
太田は同書の中で、拉致被害者・蓮池薫の兄であり、当時「北朝鮮による拉致被害者家族会」事務局長として「家族会」のスポークスパースンの役割を務めていた蓮池透の発言にもふれている。
当時蓮池透は「北朝鮮が拉致問題に対して何の誠意も示さないのに、なぜ日本が先に低姿勢で食糧援助の要請に応じなければならないのか」(『奪還 引き裂かれた二十四年』新潮社刊)と述べ、「弟は北朝鮮に突然自由を奪われ拉致された。拉致は基本的人権侵害の極みだ。平和憲法を唱えている間にも日本人の人権は侵されている。憲法九条が足かせになっているなら由々しき問題だ」(2003年5月3日、「21世紀の日本と憲法」有識者懇談会・公開フォーラムでの発言)。
こうした家族会事務局長としての蓮池透の発言に対し、太田は「被害者である弟を『切り札』にして、政治・外交上の一国の政策に関わるすべてを語り始めているように見える」と批判し、「もはや、家族会の人びとの痛切な心情を尊重し、慮って、私たちが言葉を慎むべき段階は終わったと思う。なぜなら、個人としての当然の怒りが、この社会の政治・外交・軍事政策総体を、向かうべきではない方向へと突き動かす運動へ、それは転換しつつあるからである」と書いた(『拉致異論』)。
その太田と蓮池透両氏の対談が『拉致対論』(太田出版)として「ピョンヤン宣言」から七年後のいま出版されたことは大きな意味を持っている。拉致問題の解決と日朝交渉が完全なデッドロックに乗り上げ、北朝鮮の核開発・「ロケット」発射をも要因として、エスカレートする北朝鮮への「制裁強化」の主張が日本政府の立場をがんじがらめに縛りあげてしまっている。「救う会」「家族会」の強硬論は、日本政府が「何もしない」ことの口実となってしまい、「北朝鮮の脅威」に備えるとして、九条改憲や「核武装」への道を正当化する論議に流し込まれている。
蓮池透は、2004年5月の小泉再訪朝以後、「家族会」の対応や「反北朝鮮」強硬論に対する違和感を表明しはじめ、2005年3月には「家族会」事務局長を退任した。そして昨年以来、拉致問題と日朝関係の懸案解決のために、『世界』や『週刊金曜日』のインタビューや各種の講演にも応じ、今年5月には『拉致 左右の垣根を超えた闘いへ』(かもがわ出版)を出版した。
『拉致異論』を書いた太田と蓮池透との四回に及ぶ討論をまとめた本書の刊行は、日朝関係の歴史と現在を集約的に表現する「拉致」問題を解決するための隘路をこじあけようとする努力に資するものであり、現在の日本を覆う排外主義の気運に抗する道をさぐることにつながるだろう。もちろんそれは、左翼運動のあり方を問い直す努力と切り離すことはできない。
蓮池透は太田との「対論」の冒頭で「これまでは家族会や救う会の関係者といった、いわゆる『同じ陣営』の人たちと語るばかりだったので、私には自由な対話というものがなかったのかもしれません」「私たちは、『自分は被害者だ』ということのみを前面に出して、胸を張っていたんです。今になって考えてみると、それは被害者とは言えない姿だったと思います。日本中にも世界中にも様々な被害者がいます。にもかかわらず、拉致被害者の家族というだけで、自分たちが一番の悲劇のヒーロー、ヒロインだという錯覚に陥っていたところがあると思います」と率直に当時の自己を振り返っている。
蓮池透はさらに日本と北朝鮮との関係を「北朝鮮=悪意の加害者」「日本=善意の被害者」という関係ではなく、歴史的にとらえ返す必要についても言及している。
「日本政府はピョンヤン宣言の中で『過去の清算をします』と言いました。でも『あなたがたに対してこういう被害を与えたからこういう清算をします』という文章はありません。具体化がまるでなされていない。ですから、政府が責任を持って何があったかを示し、日本国民がそれに沿った歴史観を共有するということが一番大切だと思います。強制連行や従軍慰安婦がなかったとか、植民地支配の責任がないという方針はもうありえないと思います。日本はピョンヤン宣言でも村山談話でも責任を認めているんですから。だったらそれを具体化して世に知らしめる責任があります」と。
蓮池透が、「家族会」のスポークスパースンとして北朝鮮への強硬論を唱えていた時と比べたこうした大きな転換の背景には、拉致被害者として北朝鮮で二十四年間を送り、北朝鮮を深く知らざるをえなかった弟・薫の存在があったことを、太田の質問に応えて彼は認めている。蓮池薫は、北朝鮮で彼が見た現実について多くを語ることはない。それは彼自身の考え抜かれた「対北」戦略でもあるという。
同時に薫は、すでに数多くの韓国の文芸作品を翻訳刊行し、北朝鮮による拉致という過酷な経験を、日本と朝鮮半島との関係に引き寄せながら、自分で今できることは何かという主体的な判断にたった仕事を続けている。
透が「複眼的・論理的思考」の持ち主という弟・薫との葛藤を含んだ対話の積み重ねを通じて、透自身の思考の変化がもたらされたことを見れば、この「対論」のもう一人の隠れた主体が、蓮池薫であるという印象を読者は強く持つことになるだろう。
言うまでもなく蓮池透は、拉致被害者家族としての長い孤立した闘いを通じて、北朝鮮の国家犯罪、日本政府の無為無策に強い怒りを持っている。そうであればこそ7年たっても「経済制裁の強化」を言うばかりで、拉致被害者を救出するための具体的な戦略・戦術を持つことを怠る政府や、メディアの扇情的な北朝鮮報道を批判せざるをえないのだ。
蓮池透は、「救う会」の理論的指導者である佐藤勝巳の主張が「北朝鮮打倒」という大命題の下に被害者家族を利用するという論理だったのに対し、太田の『拉致異論』は「拉致に関する社会の思想構造を非常に正確に捉えています」、「真理をきちんと見据えて、それをご自分の論理で組み立てていくという語り口が印象的でした」と高く評価している。
こうした対話が可能となったことに私たちは希望を見る。それは拉致被害者の救出のための闘いと、ますます悪質化している排外主義と対決して、侵略と植民地支配の負債を歴史的に清算していくための闘いを同時に進めていくという課題をあらためて私たちにつきつける。左翼の側は、自己弁明と決別しなければならない。
そしてこの闘いは、北朝鮮の全体主義的軍事独裁の下で呻吟する民衆と連帯しようとする道を意識的に探り出していくことと一体なのである。(国富建治)