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賈樟柯監督の「四川のうた」(原題:二十四城記)を観た。日本で公開される中国映画にはめずらしい国有企業の労働者のインタビューを正面に据えた作品だ。

◎「四川のうた」公式サイト
http://www.bitters.co.jp/shisen/

ま

 

日本ではあまり知ることのできない国有企業労働者達の心情を、ドキュメントとフィクションを織り交ぜた作品として仕上げたものであり、フィルム全体に流れる「消えゆくものへの葬送歌」というイメージがぴったり来る。420廠とともに生きてきた労働者たちの悲哀、もやに包まれた成都の街並み、時代を象徴するBGMなど、中国の国有企業についての予備知識がなくとも楽しめる作品だろう。

しかし、例のごとく、観終わった直後から、いや上映の最中からだろうか、カッパに襲われ尻の穴からすーっと力が抜けるような感覚が駆け巡った。「これは国有企業改革の一面、労働者の心理の一面しか描けていない、重要なキャストが欠けているではないか!」という叫びを押し殺しながらの観賞は疲れる。そしてとどめは最後のセリフ。「私は労働者の娘だもの」。

+ + + + +


1958年に中国四川省成都に建設された航空機エンジンを製造する巨大国営工場が舞台。三万人の労働者が働いてきた。この工場はミグ15のエンジンなどを製造していたことから軍の機密工場として位置づけられ「420廠」と呼ばれてきた。敷地内には、生産設備のほかに、住宅、映画館、幼稚園から大学までが完備されていた。

2005年12月、420廠は56万平米もの広大な敷地を民間の不動産会社、華潤置地有限公司に21.4億元で売却、不動産会社はこの跡地に「二十四城」という商業施設をともなった新興住宅地を建設する。

賈樟柯監督は、有料パンフに収録されているインタビューの中で次のように述べている。

「2007年に、四川省にある『420工場』が不動産会社に売却され巨大な商業施設に変わるという新聞記事を読みました。国営工場が膨大な金額で民間企業に買われ、商業化される・・・・・・これは、中国の変遷の象徴です。『国の産業化』という国家の考えの象徴が“工場”ですが、今度は『商業化』として“街”に変わる。工場には3万人の労働者がいて、家族を加えると10万人だということにも驚きました。工場が消えるということは、働き、学び、遊んだ場所、つまりは10万人もの人々が生きた思い出がすべて失われるということ。故郷を失うのと同じです」

映画は、420廠の風景と8人の労働者・家族のインタビューを中心に進んでいく。かつては新中国建設を担う主人公として、そして改革開放以降は改革の対象として、時代時代を生き抜いてき420廠の労働者たちへのインタビュー内容はぜひ映画館で見てもらいたい。

ここでは、前述の「重要なキャスト」について触れるに留めたい。

中国の国有企業改革は改革開放政策の大きな要のひとつとして90年代後半から本格的に進められてきた。国務院国有企業監督管理委員会の管轄下にある「中央企業」は、2003年末の196社から2006年末の159社に再編された。中央企業は、国策企業としてグローバル市場で多国籍企業として活躍する役割を与えられた。一方、膨大な数の中小の国有企業や集団所有制企業にいたっては、株式会社化をはじめとする民営化が進められた。

国有企業は1998年の23.8万社から2007年には11.6万社までに整理統合された。1997年に634万人であった国有企業のレイオフ(一時帰休)労働者は、ピーク時の2000年には657万人に達した。その多くが、もとの国有工場に買えることなく労働市場の荒波に放り出された。全国の国有企業及び国有企業傘下の企業の従業員数は、2002年の4680万人から2005年には3819万人に減少した。

420廠をはじめ全国各地で進められた民営化は、「企業制度改革」と呼ばれて大々的に進められてきた。党の指導に従うことが労働者の誉れと叩き込まれてきた国有企業の労働者たちは、「改革開放」の大号令にしたがい、一時帰休や配置転換に応じていく(映画でもそれに応じた労働者の話が出てくる)。そして、しばしば企業改革の過程で発生する労働争議のなかで必ずと言っていいほど労働者の敵として登場するのが、腐敗した工場経営陣である。

本来は労働者に分配しなければならない資金を、どさくさにまぎれて掠め取ったり、国有資産である工場資産をただ同然の値段で民間企業に叩き売ったり(売却先は工場経営陣の関係者が経営している民間企業だったりする)、共和国のために!と苛酷な労働に耐え忍んできた労働者の老後の年金を支払わなかったりと、腐敗した国有企業経営陣は、「改革開放」という20年を映し出してきた社会的フィルムにおいては、欠かざるべきキャストの1人なのである。

にもかかわらず、「四川のうた」に登場するのは、苦境に耐え忍んだり、かつての反映をもの悲しげに振り返ったり、あるいは時代の波に乗り遅れまいとしたりする労働者やその家族しか登場しないのだ。そこに悪人はいない。人民の敵は一人も登場しない。

賈樟柯監督はインタビューの最後でこう語っている。

「かつて団体主義だった中国は徐々に個々になった。映画のラストでチャオ・タオ演じる女性が示す“私の人生は私が作る”という姿勢は、この50年の中国の進化を示してもいます。この作品で僕は、政治や社会の体制、社会主義の在り方を放棄せざる得なかった過程に、正面から向き合いました。何より、そこに生きてきた人たちの気持ちを撮りたかったんです。」

8人の労働者(およびその家族)のうちの4名は俳優が演じている。100人以上の労働者にインタビューをして、印象的なエピソードをまとめて1人の労働者(およびその家族)の物語として描き出している。

そのうちの1人、女優の趙濤さん演じる蘇娜は、父母ともに420廠で働く労働者の娘という設定だ。親の期待に沿えず有名大学への進学をあきらめ、現在は服飾バイヤーとして香港と成都を行ったり来たりしている。しばらくぶりに420廠で額に汗してまっ黒になって働く母親を見た夜、実家で家族と一緒に食事をして、そのまま泊まっていくことにした。長い間使っていなかったベットに横になり、自分がすこし大きくなったと感じた。そして苦労をかけた親に孝行するために、こう誓った。「両親に“二十四城”の部屋を買うの。高いことは知ってるわ。でも買ってみせる。私は労働者の娘だもの。」

「私は労働者の娘だもの。」このセリフは、趙濤さんのアドリブだと言う。この一言で、どんな困難にも耐え抜く労働者階級の強さと悲哀を表したかったのだろうか。「消えゆくものの悲哀」を歌ったメロディーであれば、それでいいのかもしれない。しかし労働者階級は消えてなくなりはしない。黙ってばかりはいない。スターリニズムや毛沢東主義という歴史的な限界をもちつつも、労働者国家の全面的な後退のなかで、たたかいはつづけられてきたし、いまもつづいている。

その「労働者」の夢が、民営化された工場跡地に立つ商業施設に併設された高級マンションである、というのは、スターリンジョークならぬ毛沢東ジョークにもならない。

この映画は3月6日に中国40都市、270スクリーンで封切られている。三日間で100万元の興行収入を突破したともいう。

和諧社会(調和ある社会)を掲げる中国政府にとって、「消えゆくものの悲哀」のみを描いたこの映画はまさに「和諧」映画だろう。そこには腐敗した経営陣、悪徳役人、労務部としての役割しか担わない労働組合、上にへつらう労働者などの「キャスト」は1人も登場しない。民営化に対する一言の抗議の声もない。腐敗官僚を告発する横断幕やピケもみられない。

治安当局によって監視・統制されているインターネットの片隅に、この映画を観た人の殴り書きが残っている。「二十四城を買うだって?420廠の労働者に買えるわけがないだろう。二十四城の一室を買えるのはせいぜい420廠の腐敗官僚くらいなもんだ」。

また別の書き込みでは、直接この映画を批評しているわけではないが、中国政府が進めてきた国有企業改革について、インターネットの投稿サイト「強国論壇」では、次のようにリストラ政策を批判している。

「当時、お偉いさん方は、労働概念の転換が必要だ、露天、荷物担ぎ、靴磨き、パートなど、みんな労働なのだ、何もみんな国有企業に殺到して共倒れになる必要はない、と新聞紙上などで言っていた。そうかもしれない。だけど、お偉いさん、その子ども達、知識人、エリートたち、メディア関係者やその家族など、だれ1人としてその理論を実践したヤツなどいないではないか。都道府県クラスの官僚、局長クラスの官僚といわないまでも、小さな町の役所の木っ端役人の息子や娘達でさえ、そんな仕事をしたこともない。」

「リストラやレイオフを強引に進める企業では、労働者同士の人間関係もぎすぎすしている。中傷、揚げ足取り、噂、密告、おべっか、ゴマスリなどが蔓延している。職を失いたくないばかりに、付和雷同し、卑屈になり、表情どころか人格まで売り渡す」

「何も知らないヤツラが、お偉いさんやエリートが撒き散らす“理論”を聞き、『3000万の国有企業労働者の犠牲!』に喝采を送り、『淘汰される世代』というスローガンに興奮している。これは文革の当時に『中国のフルシチョフを打倒せよ!』というスローガンに感激した心理状態と同じではないのか。」

※中国では改革開放の過程で3000万とも5000万ともいわれる国有・集団所有制企業の労働者が労働市場に投げ出されたと言われている。「中国のフルシチョフを打倒せよ!」とは毛沢東が劉少奇を打倒するために用いたデマゴギー。

映画の中では、女性労働者たち(のサークル?)が歌う『インターナショナル』が流れる。しかし曲の最後に、工場社屋の取り壊しシーンと重ね合わされることで、『インターナショナル』が葬送歌として印象付けられる。「四川のうた」を、一時代を担った中国の老工人(国有企業労働者を指す)の葬送歌にしてはならない。「四川のうた」を新しい時代の闘争歌に、『インターナショナル』に!

創設大会で5月1日を国際メーデーとした第二インターナショナル結成120周年に際して、また、国際メーデーのきっかけとなったヘイマーケット事件で犠牲となった労働者・アナーキストを記憶して、そして420廠と中国全土の老工人たちと、この映画を見たあなたにインターナショナルの連帯をこめて。

(H)

(参考)
■学習会:中国とグローバリゼーションと私たち(「かけはし」2007年10月22日号)
http://www.jrcl.net/frame071022d.html
■中国 官僚と資本が進める企業再編(「かけはし」2007年8月27日号)
http://www.jrcl.net/frame070827f.html

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