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 4月28日、文京区民センターで「天皇制と植民地主義を問う」4・28--29連続行動、「60年安保50年目の4月28日に「安保と沖縄」を考える」が新しい反安保行動をつくる実行委員会主催で開かれ、七十人が参加した。

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 最初に、加藤さんが主催者として集会の趣旨を次のように述べた。

 「反安保実は1995年、沖縄米兵による少女レイプ事件をきっかけに大きく盛り上がった基地撤去闘争に連帯するということで1996年につくられた。反安保闘争を何とかつくりあげようとしてきたが必ずしもそうなっていない。安保問題が普天間基地問題を通じて表に出てきた。今が最大のチャンスだ。1951年4月28日、日本は独立の回復と同時に沖縄の施政権を米国に委ねた日だ。明日は植民地支配を問うということで連続行動として本日の集会があり、行動につなげたい」。

 次に新崎盛暉さん(一坪反戦地主会・代表世話人、市民平和連絡会)が「日米安保体制の歴史と現在、そしてこれから--沖縄からヤマトに問う」と題した講演を行い(別掲)、それを受けて天野恵一さん(反安保実)が「ヤマトの立場から」から応答した。

 天野さんは、天皇・沖縄・安保問題をたくさんの研究的文献を紹介しながら、昭和天皇が沖縄をヤマトから切り離し米占領下にゆだね、日米安保体制によっていかに天皇制を維持したか明らかにした。

 1947年、天皇はアメリカに対して沖縄処分のメッセージを出し、沖縄を二重植民地化するために積極的な役割を果たした。以下の天皇メッセージ。

 ●米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう希望する。これは米国に役立ち、また日本に保護を与えることになる。

 ●沖縄に対する米国の軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期租借----25年ないし50年、あるいはそれ以上----の擬制にもとづくべきものであると考えている。

 ●このような占領方法は、米国が琉球諸島に対して永続的野心を持たないことを日本国民に納得させ、またこれにより他の諸国、とくにソ連と中国が同様の権利を要求するのを阻止するだろう。

 1951年、サンフランシスコ講和条約締結による独立と同時に日米安保条約が結ばれ、米軍への基地提供と駐留が継続された。前年、朝鮮戦争が起こり、日本の再軍備が問題になった。この時、野党や国内世論をみて動揺した吉田首相はからずしも、米政府に同調しなかった。それに対して、天皇はダラスなどと直接やりとりを行い、日米安保成立に重要な役割を果たした。

 天皇は朝鮮戦争での米軍の苦境は、間接侵略による「革命」と「戦争裁判」と天皇制打倒につながるものとみた。そこで、日本こそが米軍駐留を「希望」「要請」した。安保条約の「内乱条項」は「国体護持」のために必要であった。

 1960年安保改定の時、天皇はアイゼンハワー大統領を羽田で迎え、パレードをする予定だった。しかし、ハガチー事件によってアイクの訪日が中止された。翌61年、皇太子が訪米しおわび外交を行った。

 沖縄返還時の「核密約」についても、天皇が深くかかわっていた。1967年、佐藤が訪米した時、米国による核の傘論を強く出し、それは天皇の意思であり、沖縄の議論を進める上で再度確認しておきたいとした。また核の密約の継承問題で、佐藤は「陛下がおられるかぎり、大丈夫だ」と語っていた。

 天野さんは最後に、「天皇が安保体制をつくってきた。その責任をとってもらい、普天間基地を皇居に持ってきてはどうか」と語った。質疑討論の後、4.29反天皇制闘争、6.19反安保集会への取り組みが訴えられた。 

新崎さんの講演の要旨


 日本の戦後はどのように出発したのか。象徴天皇制・非武装国家・沖縄の分離軍事支配が一体となって進められた。連合国軍は日本本土を天皇・日本政府を通して占領支配した。沖縄は政治・行政が解体していたので米軍が直接占領支配した。憲法を擁護する平和主義派もそれを批判する自主憲法派も沖縄を注目しなかった。

 1950年の朝鮮戦争勃発により、日本の再軍備が行われる。1951年講和条約の締結と安保条約が結ばれ、米軍基地と米軍の駐留を認めた。沖縄には安保条約は適用されず、米軍の直接支配が続けられた。日米安保は構造的沖縄差別を軸につくられた。沖縄では平和憲法下の日本への復帰運動が始まった。1952年、米軍基地の割合はヤマトが八に対して、沖縄は二であった。

 1956年、大きな闘争があった。ヤマトでは立川米軍拡張反対の砂川闘争。沖縄では米軍による土地取り上げに対する島ぐるみ闘争。砂川闘争では米軍の駐留が違憲とされる判決が出される憲法や日米地位協定もあった。沖縄はそれらがなく、体を張った抵抗だった。1957年、米軍の地上戦闘部隊はヤマトから沖縄に移った。1960年、ヤマトの米軍は四割に減ったのに沖縄は二倍に増え、基地の面積は一対一になった。

 1960年の安保改定反対の大闘争があったにもかかわらず、沖縄問題は意識されなかった。対米従属か自立かの論争があったが、今から考えるとどうであったのか。

 1965年、米軍による北爆の開始とベトナム戦争の激化。沖縄の米軍基地が北爆の基地の一つとされ、「悪魔の島・沖縄」とベトナム人民から呼ばれる。佐藤首相が首相として初めて訪沖し、「祖国復帰がなければ戦後は終わらない」と発言する。対米従属派は「返すはずがない。単なるリップサービスだ」と言い、自立派は「それは佐藤の単なる願望だ」という立場だった。沖縄の基地労働者がベトナム連帯ストを打った。沖縄は反戦復帰論。

 1970年、国政参加選挙、コザ暴動、反復帰論が台頭。1972年、沖縄返還、日中国交回復。第二の基地しわ寄せ。米軍基地の75%が沖縄に集中された。普天間飛行場は返還後、フル回転、めいっぱい使われるようになった。その結果基地ゾーンに3600人が住んでいる。2800メートルの滑走路を両方500メートルずつ削れば危険性の除去はできる。

 沖縄返還をどうとらえるか。軍事同盟再編強化だ。日米同盟が公式に出てくるのが大平・カーターの時だ。それ以来安保より日米同盟の流れになっていく。細川内閣は多角的安保論。1995年にアメリカから安保再定義が出される。

 今回の普天間基地移設問題は安保問題として出ていない。岡田外相は「海兵隊は抑止力として必要だ」と言うが、なぜ必要なのかは言わない。沖縄の海兵隊は1万2千人で、そのうち兵士8千人と家族9千人をグアムに移すという。在韓米軍を三分の一に減らすとも言われている。

 鳩山の登場によって普天間基地問題が浮上し、基地問題解決に対するあきらめ派が戦線復帰した。名護市長選で、最初市政民主化しか言わなかった稲嶺候補が選挙終盤に基地反対を鮮明にし勝利した。

 安保につがみつくのはなぜか。それに対してどう切り返していくのか。(発言要旨、文責編集部)

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