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 12月28日から1月5日の早朝まで城北福祉センター前の路上を拠点に山谷越年越冬闘争が行われた。

シハ 

 不況下での派遣切りー大量解雇という状況の中で、多くの人々が路上へと追いやられる中で全国各地で越年のための取り組みが行われている。

 山谷ではこの一年間の「居住権」「生存権」を掲げた生活保護の集団申請行動や、毎週日曜日に一年を通して行われている「協同炊事」などの取り組みをベースに越冬闘争実行委員会が結成され、これまでに無く丁寧に準備が進められて来た。

 炊事で使うカマドも痛んでいたためいくつか新調した。実行委でドラム缶を購入して作業日を決め、腕に覚えのある労働者が加工して作り上げた。

 26日には渋谷のじれんやフリーター全般労組の仲間と共に新宿地下街をパトロールし、日比谷、渋谷、山谷、横浜・寿町での越年の取り組みを伝えるビラを手渡した。翌二十七日には浅草、江東区の竪川でパトロールを行った。

 28日は昼から打ち合わせを行い、センター前絵と移動し、設営を行い、夕食の準備に入る。この日は日比谷の派遣村実行委員会の仲間も「研修」ということで十数人が参加した。

 マスコミの取材も殺到した、「この年末年始は山谷で密着取材をさせていただきます。」と意気込みを語る記者もいたが、31日に日比谷公園の派遣村の闘いが始まると潮が引くようにいなくなってしまった。もっとも「若い人を紹介してください」「派遣の人はいませんか?」とか言ってたので「狙い」は明らかだったのだが。

 一日に二回行われる協同炊事は昼11時には隅田川の台東区側の言問橋のたもとにある築山で行われ、これは毎週日曜日に午後3時より行われている協同炊事のやり方を踏襲したもので、食事の後は寄り合いを行い、翌日のメニューを決定する。夕食はセンター前で三時より約一時間の寄り合いを行ってメニューを決め、役割分担し、一時間ほどの作業で完成。メニューはキムチ汁のぶっかけメシ、カレーライス、中華丼、クリームシチューなど。屠場労組からカンパでいただいた肉や、三里塚などからの野菜など、食材は豊富で何でも作ることができた。食数は例年より約三十食ほど多い程度でそれほど爆発的に増えたわけではない。これは派遣村の取り組みがあったためかもしれない。渋谷などでは明らかに派遣切りの影響で食数が大幅に増えているとのこと。

 夕食後にも寄り合いを行い、一日の反省と翌日の活動の確認を行う。とにかく何でもみんなで考え、議論して決定する、ということを徹底して行った。

 毎回の寄り合いで繰り返してインフォメイションされたのがセーファースペースという取り組みのこと。これは今回始めての取り組みであったが、女性や子供連れの人、上手く作業ができない人が排除されたり、嫌な思いをする事無く安全に参加出来るように設けられた試みだったが、毎日アナウンスされたことで雰囲気は確実に良くなった。支援者もそしてこの越年で初めて合流した野宿の仲間も作業の和に入りやすくなった。

 毎年来てくれる水族館劇場「さすらい姉妹」のお芝居はセンター前では31日夜、上野公園では二日の餅つきの後にそれぞれ上演され好評。

シハ 

 31日、大晦日の夜には恒例の年越そばを食べ乾杯、今年は平飼いの高級卵も入る、これは年末年始に出荷出来ないが鶏は卵を産んでしまうので活用してほしいと養鶏農家からカンパで寄せられたもの。

 他にも炊き出しの燃料に使う廃材を持って来てくれた人や、三日間も通ってくれた鍼灸師さん、わざわざ福島からきてくれて、散髪をしてくれた美容師さん、北海道から来てドヤに泊まり込みで越年闘争に参加してくれた人など多くの人々の力を合わせて五日の朝までの越年闘争をやりきった。

 残念なことに5日の朝、前日より具合が悪いと言ってセンター前の寝床で寝ていた仲間が、亡くなっているのが発見された。撤収作業が始まったときには言葉も交わせる状態であったが、作業が終わり声をかけたところ、亡くなっていた。今回の越年闘争の大きな反省点である。

 5日には10月の台東福祉事務所の方針変更以降、中断していた生活保護の集団申請を再開した。まずはじめに、「ちゃんとやれよ!」と申し入れを行うが、「従来通り対応する」の一点張りでらちがあかない。

 この日台東では二十二人が申請したが、面接出来たのは十一人のみ、我々よりも後に来た人達がドンドン面接室に呼ばれるが、我々は後回し、それでも10月は一日十人まで、が、十一人になったのはさすがに「ホームレスは一日十人」はまずい、精一杯やって時間切れ、というポーズを作るためだったのか?。

 さらに審査期間(二週間以内)をドヤで待機させろという要求には「緊急宿泊施設で待機してもらう方針です。」という姿勢を崩さない。

 結局、施設での待機を受け入れた人、入院が必要と判断された人は生保を取得、それ以外の仲間は却下となったが、野宿しながら仕事で金を稼ぎドヤに泊まり、そこを「居所」として「ドヤ待機」を勝ち取った仲間もいる。

 十月から大きく前進したわけではないが、この日は派遣村の仲間たちの生保の集団申請が大きく報道されており、しかも二百人規模ということで、「なんで台東区は一日十人なんだ!」と終止押せ押せムードであった。言わば山谷で一年間、毎月やって来たことを十倍ぐらいの規模でやったのが派遣村の集団申請であったのだ。

 流れは変わりつつある、野宿の仲間の闘いにも飛躍が問われている。    

(板)

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