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7月19日、三里塚芝山連合反対同盟大地共有委員会(2)、三里塚・暫定滑走路に反対する連絡会は、東京都しごとセンターで「三里塚闘争と一坪共有地運動について-7・19 加瀬 勉さんを囲む会」を行い、53人が参加した。
国交省と空港会社は、成田空港暫定滑走路北伸工事を10月までに完成させ、10月22日供用を強行することを明らかにした。さらに現在の暫定滑走路を2500mにし、南側に延長して3500m級の滑走路にすることもねらっている。東峰地区住民の頭上にジャンボ機を飛ばし、今以上の騒音と排気ガスを撒き散らす、住民追い出し攻撃の強化だ。また、現在年間20万回の発着回数を30万回に増やす計画も明らかにし、空港公害の拡大にひた走っている。過密運航化=安全軽視、事故多発が必至だ。
このB滑走路前倒し供用強行に先行して空港会社は、08年12月、空港内に存在する一坪共有地を買収しようと、全国の共有者約千人に売却を迫る手紙を送付し、09年2月にも手紙を再送した。手紙は、「売れ」と言うのみだ。
反対同盟大地共有委員会は、代表の加瀬勉さんが先頭になって空港会社の一坪共有地売却強要に反撃し、大地共有委員会の声明、ニュースレターの全国発送を行った。
今回の会は、1・11加瀬提起(木の根ペンション)に続くものとして設定した。
一坪共有者からの発言
会の司会である湯村一美さん(全水道東京水道労働組合青年女性部)から開催あいさつ、集いの設定についての経過報告が行われた。
田んぼくらぶの横山晋さん製作の「三里塚の風景─田んぼくらぶの取り組み」のDVD上映が行われ、田植えから稲刈り作業、埋められてしまった田んぼなどが写し出された。
加瀬さんは、「空港建設反対一坪土地共有化運動について」をテーマに提起した(要旨別掲)。
さらに空港会社の地権者切り崩し工作・攻撃・打撃の性格を自らの体験を通して紹介し、全人民の闘う拠点としての一坪共有地を守り抜いてほしいと訴えた。
また、加瀬資料の管理、共有地管理、「相続と譲渡問題」など具体的ケースを提示しながら、「階級闘争のモラルにもとづいて守り抜く主体によって受け皿を早急に作ってほしい」と強調した。
共有委員会の山崎宏さん(横堀地区)は、三里塚芝山連合反対同盟大地共有委員会(2)として新たにスタートし、ニュースレター第2号(別掲)を発刊したことを報告。今後の共有化運動の強化、カンパの協力を訴えた。
発言は、一坪共有者の仲間から次々と提案、問題提起などが行われた。
高橋千代司さんは、ネットワーク型の共有者の会を作り、組織的に取り組んでいこうと呼びかけた。
静岡の塚本春雄さん(元静岡・三里塚闘争に連帯する会)は、これまでの三里塚闘争を振り返りながら、その強さ、弱さを噛みしめたうえで、「静岡空港反対闘争を取り組んできた。私よりも若くて新たな世代が闘いに入っている」ことを報告した。
目黒の宮本なおみさんは、「三里塚に学びながら住民運動を推し進めてきた。その地平を維持しつつ、新たな三里塚闘争を作っていきたい」と決意を述べた。
関西・三里塚闘争に連帯する会の渡邊充春さんは、関西での一坪共有地運動の取り組みと論議を紹介。相続・譲渡など具体的課題について方針が必要だと問題提起した。
辻和夫さんは、横堀団結小屋維持会、田んぼくらぶの取り組みを報告。さらに横堀農業研修センターの現状と維持管理・財政支援を訴えた。
最後に、山崎さんから現地状況、10・22平行滑走路供用抗議の取り組みと10・18東峰現地抗議行動への参加を呼びかけた。
一坪共有者、支援団体関係者会議
共有委員会から大地共有委員会(2)のスタート、全国名簿、今後の運動イメージが提案された。
三多摩、京都、千葉、練馬の仲間たちから1.委員会のブログ、HP立ち上げ 2.加瀬資料管理・鉄塔管理とNPO、社団法人の設立 3.諸手続きのマニュアル化と名簿管理と配布 4.相続と譲渡問題の方針などについて提案された。
委員会は、諸提起の整理と意見集約し、今後、具体的方向性を提案することを確認した。
1966年5月18日に富里・八街空港反対闘争一坪共有運動の登記をした。土地の提供者は川島秀介、長谷川清二、山下藤一郎であった。
一坪共有地運動の発端は、千葉県館山から投函された特命の一枚のハガキが社会党参議院議員加瀬完さんのところに来た。内容は建設予定地にクロスする形で大勢の人が土地を共同で所有すれば建設は阻止できるというものであった。そしてマンモス土地共有化運動が始まったのである。
反対同盟は富里、八街、酒々井、山武、芝山の各町村の連合の反対同盟であった。大鐘争議とか、西村争議などを戦い抜き、千葉県に初めての農民組合を組織した人々が、社会党の党員として残っていた。また、反対同盟無用論の農民も沢山いた。自分の土地は自分で守る。意志の弱いものが他人を頼って反対同盟を作るのだ。闘争すれば、金と手間がかかり畑が草だらけになりとどのつまりは土地を売ることになる。命をかけて先祖の土地を守れといっておきながら、その土地を見ず知らずの人に売り渡す。矛盾しているではないか、と。
しかし借地運動、地上権の設定運動、立木の売買運動などが展開されていった。しかも偉い社会党の国会議員、県会議員に限ると設定し運動が始まった。県庁乱入闘争、耕耘機でデモなど運動の発展の中で、一坪共有地運動に土地を提供する人が出てきた。青年行動隊であった。政治的自覚のある青年によって土地は提供されたのである。3000人の申込みがあった。
1966年7月4日三里塚闘争開始
社会党は反対同盟を結成。現地闘争委員会を組織して三里塚に土地を持つ会を結成し、一坪共有地運動の取り組みを開始した。芝山反対同盟と三里塚反対同盟を一つにすると、同時に一坪共有化運動を実施する。目的は、騒音地帯の農民と敷地内部の農民の団結を図る。これが第一次一坪土地共有化運動の目的であった。
駒井野の第一次強制代執行で共有地を死守、敷地内部の農民、騒音地帯の農民、支援団体が運命共同体、一つとなって戦うことができた。しかし、成田治安立法に賛成して社会党は一坪共有地を放棄、共産党はパゴダを権力に売り飛ばして三里塚から姿を消していった。
木の根土地共有化運動
反対同盟小川明治副委員長の死亡、財産相続問題が発生した。小川直克君が移転するような状況に追い込まれた。小川源副委員長、小川直克君が私に「明治さん」の意志を引き継いでくれと土地の所有を要請された。全国の政治団体、同志、たちの出資金で木の根の土地の譲渡を受けた。したがって木の根の土地は、日本人民の所有地であり、たまたま私が代表名義人となったのである。
木の根の土地は、風車を立て、畑地灌漑をやり、交流の場ペンションの建設した。芝鉄の建設に反対し、一坪共有地全国運動を展開し、現に横風滑走路の建設を阻止している。強固な空港建設反対の意志と空港建設地に土地を所有する。この二つの物質的条件がひとつになって大衆的力を持ったときに闘争の前途はさらに開けてくる。
一坪共有地運動の目的は三里塚の農民と運命を共にしてその闘争に生涯をかけることである。
■大地共有委員会ニュースレター 第2号の紹介
2009年7月19日 発行:三里塚芝山連合空港反対同盟大地共有委員会(2)
内容紹介
・加瀬勉さんメッセージ
・新たな一坪共有化運動にあたって─共有委員会
・仲間たちからのメッセージ/宮本なおみ(東京・目黒区)/吉川守(愛知)/高橋千代司(東京・調布市)/関西・三里塚闘争に連帯する会/湯村一美(全水道東京水道労働組合青年女性部) /連帯社/声明 三里塚・暫定滑走路に反対する連絡会 2009年6月22日/石井紀子(東峰地区)
(ニュースレター第2号から)
全国の一坪共有者、支援の皆さんへ
新たな一坪共有化運動の開始にあたって
三里塚芝山連合空港反対同盟大地共有委員会(2)
三里塚空港反対を共に闘う全国の共有者が所有する一坪共有地は、現在も二期工事予定地である木の根・横堀(横風滑走路予定地)、東峰(平行B滑走路予定地)に存在し、国─空港公団(現在は株の100%を国が持つ成田国際空港株式会社)の当初計画の完成を厳然と阻んでいます。
横風滑走路は共有地の存在により滑走路として使用することはできず、暫定的に湾曲させてA滑走路と第2ターミナルをつなぐ誘導路として使われています。また平行(B)滑走路は東峰地区で買収─移転を断固として拒み、そこで農業を続ける農民の存在と共に南側への延長を阻止されて2回も北側に延長して供用されています。
一坪共有化運動は三里塚農民と連帯し、2期工事を阻止するために1980年代に始められました。その過程で再共有化運動に反対する党派の暴力的な妨害により困難な状況もありましたが、それを乗り越えて全国から多くの共有者を結集することができました。
空港会社は飽くなき利潤の追及のために更に空港機能の拡充をはかり、一坪共有地を堅持することは、現在も闘い続ける三里塚農民と連帯することはもとより、自身が国家権力や資本の横暴といかに向き合うかということが問われています。
われわれは今後も一点の妥協もなく闘い続ける決意です。
共有委員会は運動の持続に向け、体制を一新して再出発します。
堀越昭平・前共有委員会代表が移転に応じ反対運動から離れたので、新たに木の根共有地提供者である加瀬勉を代表とし、役員に現地と東京の共有者が就き、運営していきます。
また、新体制を表すために「大地共有委員会(2)」(パート2)と表記します。今後は共有者との連絡を密にし、ニュースの発行や各地の共有者の交流・組織化、三里塚現地での交流などを積極的に図っていきたいと思います。全国の共有者の皆さん、当初の目的を果たすために共に進みましょう。
2009年7月7日