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 パキスタンでは、ここ二日間に見られたように、全土でこれほど多くの人びとが街頭で抗議の行動に立ち上がったことはなかった。人びとはすべて団結し、バキスタン中でベナジル・ブットの残酷な殺害を非難している。このニュースは大きな衝撃をもって聞かれ、ただちに大衆的怒りがパキスタンのすべての地域で爆発した。十二月二十八日は、政党からさまざまな職業グループにいたる多くのグループが呼びかけたゼネストの一日目だった。

 パキスタンイスラム教徒連盟(PMLQ)の選挙ポスター、横断幕、旗、掲示板のほとんどが大衆的怒りの最初の犠牲となった。PMLQは一九九九年以後のムシャラフ将軍の創造物であり、パキスタンイスラム教徒連盟の大分裂によって作られた。残る部分は、元首相のナワズ・シャリフが率いている。PMLQは二〇〇二年以後、ムシャラフ将軍と権力を分有しており、最も腐敗した封建主義者、資本家、軍の前将軍、闇市場で儲けている連中などから構成されている。

 PMLQは、こうした宣伝物に何十億ルピーもかけていたが、そのすべては大衆的反撃の数時間のうちになくなってしまった。それは念入りな準備でなされたと誇りをもって主張されている。これらすべての反民衆的選挙宣伝物を撤去する活動は、この上もなく手慣れたやり方で行われた。パキスタン人民党やバキスタンイスラム教徒連盟ナワズ派の選挙宣伝物は撤去されなかった。


 次に対象となったのは、おもにシンド州(カラチを州都とする東南部の州)の銀行だった。シンド州の多くの都市で銀行が襲撃され、建物が燃やされた。ATM装置のほとんどが破壊された。一部の場所では、人びとが運よくカネを家に持ちかえった。銀行はこの数年の間に、かつてない利益を上げていた。一九六〇年代初頭にはよくあったフリーバンキングはもはや存在していなかった。

 国内のすべての地域で数百の民営バスが燃やされた。ムシャラフの八年間の統治の間に、バス料金は余りにも高くなった。もはや公営バスはない。PMLQの政府閣僚のほとんどは、自分のバス会社を所有しており、大衆の貧困から巨大な利益を上げている。

 シンド州では鉄道車両の放火事件も起こった。「デイリー・ジャング」紙によれば二十八の駅、十三の気動車、七つの列車が燃やされ、その損失額は三十億ルピーに達する。鉄道運賃は、ムシャラフ政権の下で鉄道経営の赤字を削減しようとして数倍に跳ね上がった。鉄道もまた部分的に民営化された。十二月二十七日の夜以来、すべての鉄道システムは機能を喪失している。数日間で回復する見込みはたっていない。鉄道の駅では幾千人もの乗客が回復を待っている。パキスタン国際航空(PIA)と二つの民間航空(エアー・ブルーとシャヒーン・エアー)は「予定変更」という名目で、すべての国内線のフライトをキャンセルした。スタッフは現れていない。

 パキスタン全土で、おもに青年からなる怒った群衆によって数千台の自家用車が破壊された。彼らは自らの怒りを、ここ数年でかつてない利益を上げた自動車会社(おもにトヨタ、スズキ、ホンダ)に向けている。多くのリース会社は、自動車は通常ではない価格で提供することで、成長する中産階級を収奪してきた。その一方で、住民の圧倒的多数には代替的な公共交通がもはや存在しない。

 PMLQの政治家、地域政府の市長や行政官の家や事務所も、大衆的反撃の犠牲となっている。それらは燃やされるか破壊されている。

 この四十時間で、これまで百人以上の人びとが、大衆的抗議に関連した事件によって警察あるいはさまざまなグループの十字射撃により死亡した。

 幾千、幾万の人びとがベナジル・ブットの死以後、ムシャラフ政権とアメリカ帝国主義に反対するスローガンを上げている。この八年間で怒りが蓄積され、この思いもよらない事件の後でその怒りが表現されている。これは、かつてない物価高騰、失業、貧困をもたらした新自由主義政策の厳格な実施に対する大衆の反応である。選挙のボイコット、不参加に示される怒りは、ベナジル・ブットの暗殺直後にもたらされた。

 激しい反ムシャラフ意識が広がっている。それはパキスタンのさまざまな地域で、さまざまな程度で、さまざまなやり方で表現されている。ムシャラフの下でのいわゆる資本主義経済の成長は、数百万人の人びとを絶対的貧困にとどめた。あらゆる時代の独裁体制によって増殖させられたようなものによっては、パキスタンの輝きはなかった。

 二〇〇七年は大衆的覚醒の年だった。それは最高裁長官の解任後の弁護士運動によって始まった。最高裁長官イフティカル・チョードリは将軍による圧力の下で、解任に対して大きく「ノー」の声を上げた。彼は解任されたが、八万人の弁護士会の大規模な運動の後に七月二十日には復帰した。弁護士たちの運動にはほとんどすべての政党の政治活動家が参加したが、大衆は参加しなかった。大衆は、脇道から最高裁長官を歓迎するだけで、本当の意味では運動に加わらなかった。

 ムシャラフは最初の五年任期の中で選出された議会による「民主的方法」で、自らを第二期の五年任期の大統領に選出させた。彼は「文民」大統領として選出された時、依然として軍服を身につけていた。彼のテーマは「自分を第二期の大統領として選出せよ。そうすれば文民大統領として宣誓した後に軍服を脱ぐ」というものだった。

 非常事態を名目に十一月になされた戒厳令の施行は、独立的な裁判官のトップを解任するために使われた。戒厳令はメディアを制限し、一万人以上が逮捕された。ムシャラフは裁判所のトップを解任した後、「正当に選出された」大統領として自らを押し出し、軍服を脱いだ。裁判官を自ら選んだ彼の手は、必要な支えのすべてを彼に与えることになった。この過程の中で、彼はベナジル・ブットに助けられた。彼女はタリク・アリの言によれば米英帝国主義によって「強制見合い結婚」をさせられたのである。この神聖ならざる同盟の中で、すべての者がすべての者を最大限の「誠実さ」をもってごまかし合っていた。


 総選挙は一月八日だと発表され、大規模な弾圧と独立的な裁判官の解任の後に、非常事態は解除された。政権は、すべては「計画」に従って進行しているとして満足していた。ベナジル・ブットのパキスタン人民党、イスラム教徒連盟ナワズ派とキド・アザム派(PMLQ)の三つの主要政党が、この不正きわまる選挙に参加することに合意した。宗教的原理主義者の政治連合であるMMAは、選挙への参加問題で分裂した。MMAの一主要部分は、選挙戦に参加するというところまで行ってしまった。

 選挙キャンペーン、あるいは選挙ボイコットキャンペーンは、十二月二十七日の夜に宗教的原理主義者がベナジル・ブットを襲撃し、殺害したことで始まってしまった。「計画」は粉々に打ち砕かれた。これは選挙に参加するさまざまな政党の、合意された期間や条件にとって重大な打撃だった。これは道路での衝突事故ではなく、和解と妥協の道の完全な破壊だった。

 ベナジル・ブットの殺害は両刃の剣である。それは英米帝国主義の計画にとって大きな打撃であるが、それはまた宗教的原理主義勢力にとっても祝うべきことではない。最初の怒りは軍事政権とその一族である政治家たちに向けられた。それはさらに双方に向かう可能性がある。どの政党も、この衝撃的殺害を祝うことができないだろう。

 しかしムシャラフ政権は、このことをはっきりと理解しており、今や大衆運動を宗教的原理主義者に向かわせようと意識的につとめている。昨日の十二月二十八日夜、政府を代表した軍准将は、二時間におよぶ記者会見で、パキスタンの「トライバルエリア(部族自治地域)」にいるアルカイダの協力者バイチュラ・メスードが襲撃を遂行した人物だと名指しした。

 愚かなことに彼は、ベナジル・ブットは銃撃によって殺害されたのではなく、ベナジル・ブットが車外の群衆に手を振っていたとき、爆弾の炸裂により防弾車両のサンルーフのレバーが直撃して死んだのだ、と全力で立証しようとした。もしベナジル・ブットが銃弾ではなく他の方法で殺されたことが立証されたとしても、その違いは何か。大したことではない。

 軍准将の説明は、ジャーナリストたちの怒りを満足させるものではなかった。ジャーナリストたちは彼に、繰り返しパキスタンの秘密諜報機関とアブドゥッラー・マースードの関係を問いただした。質問は、なぜマースードが一週間前に彼のグループによって誘拐されたパキスタン軍人二百人以上を、非常戒厳令が出されたその日に、おとなしく釈放したのか、ということだった。回答はなかった。軍の中央情報機関ISIは、帝国主義と原理主義者が密接な友人だった一九八〇年代から、宗教的原理主義勢力との長期にわたる関係を持っている。

 きわめて移ろいやすい、不安定で、爆発的で、危険で、衝動的で、流動的で、気まぐれな政治情勢である。大衆的反撃がこれほど爆発したことは長年にわたってなかった。

 ゼネストは全面的な成功だった。すべての道路は空っぽになった。交通機関は全く動いていなかった。すべての店は閉まっていた。すべての産業、その他の機関は完全に止まった。

 政権は当初ストライキを抑制しようとした後、今や何かを「盗もう」とする者は誰でも殺すという命令を発した。政府はシンド州の十六の地区の正規軍とパキスタン全土の非正規民兵を招集した。

 政権は、予定された選挙スケジュールを延期しないためにそうした措置を取ったが、この状況で選挙を行うことはきわめて困難である。イスラム教徒連盟ナワズ派と他の幾つかの政党は、すでにこのごまかし選挙をボイコットするとの声明を発した。

 パキスタン労働党(LPP)は、ムシャラフ独裁の即時辞任を要求し、市民社会組織、労働組合、農民組織によって構成される暫定政府の形成を訴える。この暫定政権は独立した選挙委員会の下で自由で公正な選挙を行う。パキスタン労働党は、上級判事の即時復権と、これら上級判事による今回ならびに以前の爆弾事件によるベナジル・ブットや他の人びとの殺害の調査を求める。LPPは全政党・民主主義連合の一員として三日間のゼネストを支持し、それと結びつけて軍事独裁の打倒を訴える。LPPはすべての政党が一月八日の不正な総選挙を拒否し、この選挙に参加しないよう訴える。

                     2007年12月29日午前7時

ファルーク・タリク/パキスタン労働党スポークスパースン

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