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4月25日に行われた「米軍普天間飛行場の早期閉鎖・返還と、県内移設に反対し国外・県外へ移設を求める県民大会」に参加するために仲間とともに沖縄を訪れ、現地の仲間・友人と合流して会場の読谷村運動広場に向かう。

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嘉手納基地が見渡せる「嘉手納道の駅」で昼食をとると、そこには県民大会の「統一カラー」である黄色の鉢巻をした親子三代の家族連れが食事をしている。なぜ黄色かと言うと、「鳩山にイエローカード」ということであり、琉球時代からの伝統的な神聖な色でもあるということだ。

13時からの沖縄の若手アーティスト八組のプレイベントに間に合うように行こうと思っていたのだが、「道の駅」を出てすぐ渋滞で動かない。 まさか全部が県民大会に行く車だとは思わず、この時期沖縄で行われる清明(シーミー)祭(沖縄の墓参)の影響かと思っていたら、全部の車両が読谷の県民大会に行く車だった。県民大会に参加した沖縄人から聞いたところ、「墓参りは"オジー、オバー、今日だけはゴメン"と謝って大会に参加している人が多いでしょう。ご先祖様もいいよ、いいよ、と言っていることでしょうよ」ということだった。

会場に近づくにつれ、多くの車に黄色いリボンが括りつけられていて、沿道の歩行者たちのほとんどが黄色いTシャツやなんらかの黄色い布を身に着けていた。まさに「黄色い奔流」となって、人々が大会へ、大会へ、とむかっていくようだ。

会場の駐車場は返還された旧読谷飛行場の滑走路跡で、すでに滑走路の端から端まで車で埋まっていて、駐車場内も動かない。また、やっと車を停めてからも滑走路の端から端まで歩いて万単位の人混みを掻き分けて会場に辿り着いたので、15時の大会開始直前になんとか間に合ったのだった。もし、大会開始時刻の15時到着をめざしていたら、とてもじゃないが間に合わなかっただろう。

なぜ普天間基地のある宜野湾の海浜公園あたりで大会をやらないで読谷になったのか不思議だったのだが、昨年11月に起きた米兵によるひき逃げ殺人の現場が近いということとともに、駐車場として使われている滑走路も会場となった運動広場も、そして隣接する村役場も長い闘争の末に米軍からの返還を勝ち取った場所であるから、ということでもあるらしい。この「勝利の記憶」を呼び起こそうという主催者の意図に、今回の大会にかける意気込みをかんじせさせる。

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参加層は、意外にも労組の動員はあまり目立たず、沖縄各地の市町村のバスで参加した「町ぐるみ・村ぐるみ」の住民が全体の四割、個人・家族・友人参加が四割、団体系二割という印象だ。1995年の米兵三人による小学生レイプ犯罪に抗議する県民大会では、自治労沖縄が千人以上を動員して大会前に独自集会を行っていたりしたが、今回はそのような「大組織の大動員」はなされていなかったように思える。

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また、とりわけ若い人の姿が多い。家族連れ・友人連れの若者の他に、各市町村の青年会がエーサー大会などで使う大のぼり旗を立てて大挙して参加していたのも、これまであまりなかった動きではないだろうか。

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滑走路駐車場内では、幸福実現党の街宣車が「いまは日米安保は必要です」と連呼して回り、おなじフレーズの横断幕が何箇所も貼られていた。あるいは、この3月に片手に日の丸・片手に星条旗を持って「名護に基地建設を」とデモをした「自由を守る会」を名乗るヤマトの極右=チャンネル桜などと繋がっているグループが「中国脅威論」を煽っての「日米安保は必要」とするビラを撒いていた。

大会を実際に参加して確認したかったのは、沖縄自民党も大会に参加することでヤマトの自民党や極右が鳩山政権攻撃のために"基地問題"を利用するような基調になるのか、あるいは明確に「普天間無条件撤去」を掲げた島ぐるみ闘争に向かいうるのか、ということだった。

仲井真知事をはじめ、保守系首長は「日米安保の必要性は認める」としつつも、「安保や防衛が大事だと言うなら全国民的に負担すればいい。それをなぜ沖縄だけに過重な負担を強いるのか」というスタンスだった。那覇の翁長市長にいたっては「基地をめぐって保革が対立するのはもうやめよう。県内移設も普天間の継続使用にも反対して沖縄の誇りとアイデンティティーにかけて、我らの思いを発信しよう」とほとんど「島ぐるみ闘争」を呼びかける内容の発言だった。すなわち、鳩山政権批判よりも、沖縄に過大に偏った基地負担に対してヤマトンチュに抗議するような内容であり、「沖縄差別としての基地負担問題」という認識が沖縄の保革に共有されていた。

仲井真知事の大会出席と発言は、「容認派だった知事を引きずり出して、明確に"県内移設NO!"と言わせただけで勝利だ」という認識を次の日の辺野古などで何人もの沖縄人から聞いた。もし仲井真が出席しなければ、仲井真に政府が首をタテに振らせるか否か、という攻防に集約されてしまうし、そうならない構造を作ったということだろう。

大会そのものは極めて平穏に開催されていたが、あきらめや失望感、あるいは「どうせダメだろうけど仕方ないから参加した」的な雰囲気は微塵も感じられなかった。名護の稲嶺市長やうるまの島袋市長の「移設候補地」とされた地元首長の「移設断固阻止」の決意表明は圧巻であり、その迫力は参加者に共有されていた。辺野古でも勝連半島沖でも「来れるわけもないし、本当に来るなら身体を張って徹底的にやる」という決意はひしひしと感じられる大会となったし、実際に翌日に訪問した辺野古の座り込みテントでもそのように語られていた。

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残念だったのは、この大会では東村高江における「米軍ヘリ離発着滑走路」(通称「ヘリパッド」だが、この用語は環境アセスをしないで済ませるための偽装用語である)建設についての言及がまったくなかったこと。もはや「普天間問題は辺野古問題」という意識は広範に共有されているが、高江ヘリ滑走路はキャンプ・シュワブの部隊と密に連携するものであり、当然のことながら辺野古の新基地建設とリンクしている。このことは、翌日高江でも辺野古でも異口同音に語られていた。6月か遅くとも7月には工事強行が予想されているなか、高江の反対派住民を孤立させず、この問題をさらに宣伝していく必要を痛感した。

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とにかく、大会は物凄い人の数だった。産経新聞がまたもや「情報関係者(?)によれば」などとして「大会参加者はせいぜい2、3万」と報じていたが、実際に現場で取材していたら恥ずかしくて書けないようなほとんど「デマ報道」と言わざるを得ない。強い直射日光を避けて木陰にいた人々は日向以上の密度で参加していたし、隣接する体育館などにも膨大な数の人々が日光を避けながら参加していた。司会の高校生は「大会を皆で成功させるために、木陰の人は前に出てきてください」と呼びかけていたが、どうせなら「空中写真の頭数をカウントする"つくる会"のような人たちがいるので…」と付け加えればいいのに、などと思った。

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また、大会終了時点でも、県民大会に向かう車両が読谷村の隣の北谷町、そしてその隣の嘉手納町まで10キロ以上、国道58号線の三車線を埋め尽くしていたことが伝えられた。あるいは、大会に参加できなかった多くの人々も黄色い布などを身に着けて意思表示していたことを翌日の新聞は伝えている。国際通りでは、すべてのマネキンに黄色いTシャツを着せた洋服販売店や家族全員が黄色い服で買い物をする姿、また国立劇場おきなわでは、琉球舞踊の出演者全員が黄色い布を頭に巻いて舞台を務めたことを伝えられている。

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沖縄の空気は、すでに「島ぐるみ闘争」の序章に入っていると言っていいだろう。この「空気」を見誤っていることこそが、今回の鳩山政権の「移設論議」の根本的な失敗があると言っていいだろう。

鳩山の「最低でも県外」発言は、沖縄の保守派にすら潜在していた米軍基地への拒否感を呼び起こし、日米安保体制の「構造的差別」をあらためて強く意識させる結果となった。「県内移設」を強行するということは、この21世紀にもう一度「銃剣とブルドーザー」で基地を作るということであり、日本政府は「島ぐるみ闘争」を覚悟して基地を作らなければならなくなる、ということだ。今回の県民大会は、日本政府・鳩山政権がこれ以上沖縄の「空気」を見誤ったら何かが起こる、という警告と受け止めるべきだろう。

そしてまた、この県民大会の時点では、批判の矛先は鳩山以上に「安保の差別構造」に無自覚なヤマトに生きる一人ひとりに向けられていたことを、私たちは重く受け止めなければならない。

(F)

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