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【読書案内】『もうひとつのチベット現代史 プンツォク=ワンギェルの夢と革命の生涯』①
【読書案内】『もうひとつのチベット現代史 プンツォク=ワンギェルの夢と革命の生涯』②
の続き
プンワンはラサで結婚した妻のツリナや同志のトプテンらとともに、ラサから追われ、インドのカルカッタ経由で雲南省北部の麗江に入り、49年8月15日に中共[シ真]西北地区工作委員会との接触に成功した。中国西南部ではいまだ国民党軍が抵抗していたが、ここ雲南省北部はペー族の欧根が指揮官兼政治委員をつとめる西北遊撃隊がほぼ制圧していた。
チベット東部のカム地方を支配した西康省主席の
劉文輝とその家族。1938年、ダルツェンド(康定)
プンワンらは麗江などがある雲南省北部に隣接する自らのふるさとカム南部に武装根拠地を作り、雲南北部と相互に援助しあってこの地域を制圧するということになった。
ここで「組織問題」が生じた。欧根は、「以前、あなたがたの組織の活動については聞いたことがあるが、すっと連絡がなかったのだから、もう一度中共へ入党の手続きをしてほしい」という要請である。
プンワンらは1939年に重慶にある国民党の蒙蔵学院でチベット族共産主義革命運動グループを結成したが、学生運動を理由に同学院を除籍となるが、41年に重慶の共産党の八路軍の事務所で葉剣英から「われわれは革命の同志だ」と歓迎され、「チベット人地域に帰って革命活動を展開しなさい」というアドバイスに従い、それ以降チベット人地域での活動を中国共産党の支援に頼ることなく展開していった。
42年、カム(東部チベット)地方のダルツェンド(康定)で「星火社」を結成。
43年、ラサで「チベット共産党」を結成。おなじくラサで統一戦線組織の「全ポェパ民族統一解放同盟」を結成。(ポェパとはチベット人の意味)
45年、カム地方南部に接する雲南省のデチン(徳欽)で「東チベット人民自治同盟」を結成。
48年、ラサで活動。49年7月、ラサ追放。
それぞれの地域での活動は変革に燃えるチベット青年達を結集させる一方、危険を察知したチベット政府や軍閥によって妨害・追放に遭うが、つねにチベット人メンバーだけで危機を切り抜け、次の活動をたゆまず展開し続けてきた。
しかし、欧根から提案された加盟案は、「チベット共産党」が中共[シ真]西北地区工作委員会の指導を受ける支部に加盟せよ、といういわば「格下げ」の提案であった。
「結局、プンワンらはいやいやながら妥協した。」「『チベット共産党』を改組し、『中共康蔵辺区地下工作委員会』とし、チベット共産党員すべてを自動的に正式の中共党員とするとした。」(131~132頁:康蔵とはカム地域を指す中国語)
プンワンは、こう自分を納得させた。
「ソ連共産党や中国共産党は民族の平等を擁護している。ソ連はロシア民族への少数民族の従属状態を否定し、すべての民族地域に本物の自治の権利を実現しそれを擁護してきた。だからわれわれの中共の一地方組織がやがては金沙江両岸の全チベット人地域の解放を指導し、その解放された地域は中国においてもソ連の民族共和国とよく似たあゆみ、チベット人自身によって支配されるのである」(132頁)
だが、すでのこの頃にはソ連ではスターリン体制が確立して久しく、コミンテルンは堕落に堕落を重ね、ソ連邦の各民族は「民族の監獄」といわれる体制のなかで抑圧されていた。
いま、ロシアとのあいだで戦争が勃発しているグルジアにおける民族抑圧は、ソ連邦建国当初の1920年代からスターリンを筆頭とするボリシェビキ内の大ロシア民族主義的傾向によって解決するどころか、スターリン体制の確立とともに悪化の一途をたどったといえる。
このグルジア問題は、レーニン最後のたたかいであり、トロツキーをはじめとするボリシェビキの良心が解決に力をそそいだ問題でもあった(『トロツキー研究 2号[特集]社会主義と民族問題』参照)。だが20年代末のスターリン体制の確立は、プンワンをはじめ、多くのチベット人共産主義者を引き寄せたレーニンの民族論を徹底して裏切るものとなった。
建国直前の中国共産党が、スターリンの大ロシア民族主義を意識的に踏襲したかどうかは分からないが、すくなくとも、レーニンらによるソ連邦建国当初の民族自決権・分離権を基礎とした自発的な連邦形成を念頭には置いていなかったことはあきらかである。
プンワンが、ソ連邦が「民族の監獄」状態であることを知らなかったことは十分ありえる。プンワンらチベット人の悲劇の複線はすでにここから始まっていたが、プンワンらチベット共産主義者たちは、国共内戦を制覇していく共産党の勢いに勝るともおとらない活動をカム地方で展開していく。
49年8月、ふるさとのバタンに戻ったプンワンは、この地域を支配していた国民党の劉文輝の主要部隊が兵士四百名を残して四川に撤退したことを確認し、これまでの仲間を集めて「中共康蔵辺区地下工作委員会」を結成する。同委員会は、バタンで活動をしたので「バタン地下党」とも呼ばれた。そして外郭組織として「東チベット民主青年同盟」を組織し、師範学校の教員や学生に組織を展開した。若い僧侶や国民党軍内のチベット人も組織化の対象とした。
人口18,000人あまりのバタン県城はにわかに「チベット革命」の最前衛に躍り出た。
当初は軍閥として、のちに国民党の「土皇帝」としてカムに君臨した劉文輝による搾取と民族抑圧に対するカムパ(カムの人)の反発はすさまじく、プンワンらの宣伝はあっというまに浸透し、東チベット民主青年同盟の支部は、ダルツェンド(康定)、ドルゲ(徳格)、リタン(理塘)などに拡大した。
プンワンは、マルクスやレーニン、毛沢東などの著書を集めた図書室「新文化の家」をつくり、進歩的な青年の結集をはかった。みんなで「共産党宣言」や毛沢東の著書を学習したりした。また女性学級を開いたり、識字学級も開設した。革命歌や革命演劇なども学んだ。
同時に、寺院や首長など地域の有力者への働きかけも続けていた。これら地域の有力者も、劉文輝のやり方には大いに反発を感じていたことから、プンワンらの活動を支援した。
国民党の支配がゆるくなったとはいえ、いまだ支配下にあるバタンで、公然と三度も宣伝大会を開催したりした。
1949年10月1日。毛沢東が天安門で中華人民共和国の建国を宣言。バタンの革命情勢も大きく動き出す。
11月初めのある晴れた日。バタン師範学校の校庭にたくさんの青年があつまっていた。東チベット民主青年同盟が公然と集会をうったのだ。師範学校の教員や学生のほとんどが同盟員だった。プンワンが長い演説をした。チベット語の「インターナショナル」や「東チベット民主青年同盟の歌」などが高らかに歌われた。
かれらは「バタン地下党・東チベット民主青年同盟」の名前で、毛沢東と朱徳に活動報告の電報を打った。
「わたしはこの集会に参加して感動しておどりまわった」
のちにチベット自治区の党一般書記、四川省政治協商会議副主席になるヤンリン=ドルジは東チベット民主青年同盟員としてこの集会に参加し、このように感想を述べた。
49年12月、蒋介石が台湾に逃れ、12月9日には劉文輝が降伏した。劉文輝降伏の電報を受けたプンワンらはすぐに国民党の事務所を接収し、新政権の事務所とした。国民党バタン駐屯部隊の武装を解除し、東チベット民主青年同盟を武装した。
バタン地下党・東チベット民主青年同盟のメンバーは、チベット人地域の革命指導者になっていく。後に自治区・省レベルに6人、地区州レベル48人、県レベル120人あまりの指導者を出したといわれている。
だが、党内での組織的序列は低くなっていく。
「中共康蔵辺区地下工作委員会」(バタン地下党)はバタン県工作員会となり、その権限をバタン県のみに限定される。東チベット民主青年同盟も中国民主青年同盟の一支部に組み込まれる。
この当時、重慶にいたトウ小平は次のように語り、プンワンらの活動を高く評価している。
「今日われわれ西南において民族区域自治を実行するにあたり、まずカム東部でこれをすすめる。・・・・・・そこには進歩的組織として『東チベット民主青年同盟』があり、百余りがいる。こうした条件があるのだから、すぐにでも仕事をはじめられる。これは大きな意味を持つ要素で、もしうまく解決できればチベットにもいい影響がある」(154頁)
しかしここから垣間見える?小平の構想は、前述の「われわれの中共の一地方組織がやがては金沙江両岸の全チベット人地域の解放を指導し、その解放された地域は中国においてもソ連の民族共和国とよく似たあゆみ、チベット人自身によって支配されるのである」というプンワンの構想(独立したチベット共和国が自発的に中華人民共和国と連邦を構成する)とは違い「民族区域自治」なのである。
プンワンがこの違いにはっきり気がつくまでにはもう少し時間が必要であった。
つづく
(H)