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 階級闘争 威風堂々と(下) 
 通化鉄鋼、林州鉄鋼事件から考える 
 
 もうだまされない
 
この事件からは、さらに労働者の思想的発展を見出すことができるだろう。それは少なくとも一部の国有企業労働者がこれまでの敗北の教訓をいくばかりか学んでいることを明らかにしている。それゆえ、政府の甘言には簡単にはだまされず、逆にすぐに抵抗することができ、しかも直接行動によって成果を勝ち取ることができた。かれらは曹征路の小説「那兒」で描かれていたような国有企業の労働者、すなわち訳の分からないままに政府のペテンにだまされて、無一文の失業者になってやっとその事態に驚愕するというようなことはなかった。

十年前、四千万の国有企業労働者がレイオフに直面したとき、多くの労働者が、事態をはっきりと把握できずに悲鳴を上げた。「どうして中央政府の改革政策はいつも労働者を攻撃するんだ?」と。通鋼労働者でさえも二〇〇五年の時点では、いささかなりとも事態を把握していたにもかかわらず、闘争の決心は固くはなかったことから、多くの労働者がレイオフされた。このような痛恨の教訓を汲み取ることで、労働者がレイオフされるのは官僚搾取階級の本質であることをいくらかでも理解することができた。
 
労働者だけに止まらず普通の庶民の間でも理解が深まっている。警官を殺害し死刑になった楊佳に広範な同情が集まり、役人の性暴力から身を守るためにその役人を殺害した鄧玉嬌が刑事罰を免れ、買収元企業の経営陣の陳国君が通鋼労働者に撲殺されたのちに省政府が「建龍の経営参入は永遠にない」と約束したことなどを鑑みれば、官僚も自らがすでに民衆の非難の的になっていることに気が付いており、筋が通らず劣勢に立たされ、矛盾の一層の激化を恐れている。それゆえ腰を低くして譲歩している。もちろん事後の弾圧や報復はあるだろう。しかしだからといって、通鋼労働者の輝ける勝利とそれが引き起こした波しぶき、そして労働者の思想的な発展を打ち消すことはできない。
 
おそらく人びとは、誰が人民の友であるのかについては分からないかもしれないが、誰が人民の筆頭の敵であるのかについてははっきりと分かっているだろう。そして、なぜこの敵が実力をもってしか人びとに主張を押し付けることができなのかについても一層はっきりと理解している。
 
とはいえ、決して自らを偽ってはならない。現段階は、労働運動の高揚期ではない。通鋼事件は依然として単独のエピソードに過ぎない。民衆の憎悪は深いにもかかわらず、多くの人びとは為す術がないと感じており、抵抗するものは少数で、成功の事例は更に少ない。中国共産党の支配に対する自信は単独のエピソード的事件では動揺しない。だが、この事件が新たな段階の始まりの予兆となるかもしれない。十年前、ある国有企業のレイオフ反対闘争のなかで弾圧に当たっていた警察は拡声器でこう叫んだ。「八九年の大規模群衆事件(八九年春の民主化運動:訳注)でさえも押さえつけることができたんだ。お前らなんか物の数ではないぞ!」そして「物の数ではない」労働者たちはみなおとなしくレイオフされた。だが今回の通鋼と林鋼の労働者たちは断固として官僚たちの威風を打ち壊した。これは恐らく、八九年民主化運動の敗北が生み出した恐怖感が徐々に打ち消され、階級的義憤が増大していることを反映している。
 
御用メディアは危機を感じとっている。組織がなくとも労働者は抵抗し、そして勝利してしまった、と。『瞭望』や「東方早報」などのメディアは自問自答している。「なぜ従業員代表大会と労働組合は労働者の意見を反映させる力を発揮しなかったのか?」と。当たり前だ!それらの機関は単に企業経営の付属物に過ぎないからだ。「珠江晩報」は「従業員代表大会が自立しないなら、いっそ無くなってしまった方がいい」という大見出しをつけた記事を報道した。だが喜ぶのは早い。これらの報道の本当の目的は、労働者を困難な法廷的闘争の過程にのみ引きずり込み、反抗精神をその過程で押しつぶしてしまおうという意図があるからだ。
 
よりよく権利を守るためには抵抗が必要であり、よりよく抵抗するためには組織が必要である。それは最も困難な道でもある。だが階級闘争は威風堂々と進むだろう。その流れに従うものは栄え、逆らおうとするものは滅びるだろう。労働者大衆は自ら道を切り開くに違いない。四川大地震の被害者や毒粉ミルク被害者らがさまざまな組織を結成していることを鑑みれば、長年にわたり労働規律の薫陶を受けてきた労働者たちが、この関門を徐々にでも突破することができないと考える理由はないだろう。
 
現実から出発しよう
 
労働運動の前衛は座して待っていてはならない。何らかの動きをはじめなければならないだろう。だがそれは長期的な展望に立つべきであり、また現実から出発しなければならないだろう。海外の一部の友人たちは「独立労組を組織せよ」とアドバイスしている。それは政治的には正しいだろう。しかしあまりに大胆で荒っぽい提起である。労働者の抵抗が普遍的に登場していない中で、「独立労組の組織化」が直接的な行動目標となることは困難であり、もし実践したとすればすぐに政府から「非合法組織」として粉砕されてしまうことを、はっきりと理解すべきである。「独立労組」という目標は、現段階では一種のイデオロギー教育の域を出ない。もちろんそれが例外的ケースとしてありえることをわれわれも排除しない。だがあくまで例外であり一般化することはできない。
 
状況に応じて、比較的弾力性のある「自主的団結の発展」という方針を用いるべきだろう。それは、初期において発展する組織は、かならずしも労働組合的な性質を持っているとは限らないし、正式な名称や組織形態さえもないかもしれないからだ。あるいは労働組合の場合でも、組織や名義の上では官製労組から独立していないかもしれない。
 
国内外の経験は、労働者が階級的独立性を勝ち取る長期にわたる闘争において、組織形態の上で臨機応変に対応してきたことを明らかにしている。最初の段階から、完全に独立した労働組合を発展させてきたケースもあれば、執行部に対して民主的選挙を迫り、選挙の結果、執行部を変えさせたというケースもある。名前の上ではこの労働組合は政府系労働組合に属しているが、現実は現場労働者の自主的組織として活動している。独立労組が登場していなかった一九八〇年代の台湾でも上記のような二つのケースが存在した。
 
今日の中国において、力関係は依然として労働者に不利である。それゆえとりわけ後者のケースを排除することはできない。この後者のケースにおいても当然ひとつの前提がある。つまり進歩的労働者が中心となって教育、鼓舞、調整を行っているということである。これにはどのような名義や形態もありうる。総じて、いわゆる「独立」は、その言葉に拘泥してはならない。重要なことは、表面的な組織名称ではなく、実質的にどうなのかである。現実から出発しよう。形式ではなく実質を重視しよう。小さな範囲から大きく発展させよう。その具体的な方策は労働者階級自らが模索するだろう。この区別ができずに、お題目ばかりを唱えていると、良かれと思ったことが逆に禍を引き起こすことにもなりかねない。
 
2009年9月1日

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