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 われわれはベナジル・ブットが政権の座についていた時も最近でも、彼女の振る舞いや政策を鋭く批判してきた。そのわれわれでさえ、彼女の死に動転し、怒りをかきたてられている。再びパキスタン全土に怒りと恐怖が広がっている。軍事的専制と無政府の奇怪な共存が、昨日ラワルピンジで起こった彼女の暗殺を引き起こした諸条件を創り出したのである。かつて軍事支配は秩序を保全するものとされていた。そして数年間はそうであった。今やそんなことはない。今日では軍事支配は無秩序を創り出し、無法状態を促進している。法廷に対する政府の情報機関と警察の説明責任を確保するために、最高裁長官と八人の最高裁判事を解任するなどということを、それ以外にどのように説明できようか。
 最高裁長官・判事らの首のすげ替えにより、注意深く組織された有力な政治的指導者の殺害の背後にある真実を暴露するために、政府関係者の悪事を厳密に審査することは言うまでもなく、あらゆる行動のための支えが欠けてしまっている。

 


 現在のパキスタンは、大混乱と絶望以外のなにものかになりうるのだろうか。ブットを殺害したのはファナティックな聖戦主義者(jihadi fanatics)だとされている。おそらくそうなのかもしれな い。しかし彼らは自分たちだけでそれをしでかしたのだろうか。
 ベナジル・ブットに近い人たちによれば、彼女はこのいかさま選挙をボイコットしようとしていたが、米国政府の意向を拒否する政治的勇気が欠けていた。彼女は満ちあふれるほどの肉体的勇気を持っており、地元の敵対者からの脅しに屈することを拒否した。彼女はリアクアット・バリでの選挙集会で演説した。ここは一九五三年に暗殺されたパキスタンの初代首相リアクアット・アリ・カーンから名づけられた有名な場所である。アリ・カーンを殺したサイード・アクバルは、この陰謀に関与した警察官の命令で即時に射殺された。ここからそれほど遠くないところに、かつての植民地時代の建物があり、そこには民族主義者たちが収監されていた。それはラワルピンディ刑務所だった。一九七九年四月、ベナジルの父であるズルフィカル・アリ・ブットが絞首刑に処せられたのはこの場所だった。アリ・ブットの処刑に責任のある軍事的専制支配者は、この悲劇の場を確実に破壊してしまった。
 ズルフィカル・アリ・ブットの死は、パキスタン人民党と軍部との関係をぶちこわした。人民党の活動家、とりわけシンド州(訳注:パキスタン最大の都市カラチを州都とする同国南東部の州)の活動家たちは、残忍に拷問を受け、侮辱され、行方不明となったり殺されたりすることもしばしばだった。

 継続的な軍部支配と不人気なグローバル同盟関係の結果であるパキスタンの動乱の歴史は、今や支配的エリートを深刻な選択に直面させている。彼らには積極的な目的がないように見える。パキスタンの圧倒的多数の人びとは、政府の外交政策に反対している。大きく膨れ上がった寄生的な軍部をふくむ冷淡で貪欲なエリートたちをさらに富ませる以外の真剣な国内政策が政府に欠けていることに、彼ら大多数の人びとは怒っている。今や彼らは彼らの面前で政治家たちが射殺されるのを、どうすることもできずに見ている。
 ベナジル・ブットは、昨日の爆弾の破裂からは生き延びたが、彼女の車を狙った銃撃に倒れた(訳注:その後報道された事実関係とは前後している)。一カ月前のカラチでの失敗を心に止めた暗殺者は、今回は二重の保険をかけた。彼らは彼女の死を望んだ。今や不正に操作された選挙でさえ行うことは不可能である。選挙は延期されなければならない。
軍の上級司令官が、状況がさらな悪化すれば――それは容易に起こりうるのだが――もう一つの軍事支配という調合薬を構想していることは疑いない。
 起こったことは多層的な悲劇である。それはよりいっそうの惨劇への道を歩む国に起きた悲劇である。激流と泡立つ滝が、前方に待ち受けている。そしてそれは個人的悲劇でもある。ブット一家はもう一人のメンバーを失った。父、二人の息子、そして今度は娘が、すべて自然死ではない死を迎えた。

 私が初めてベナジルに会ったのは、カラチの彼女の父親の家であり、その時、彼女はふさけるのが好きなティーンエージャーだった。後にオックスフォードで彼女と会った。彼女は生来の政治家ではなく、外交官になることをいつも望んでいた。しかし歴史と個人的悲劇が別の道に押しやった。彼女の父親の死が彼女を変えた。彼女は新しい人間となり、決意をもって当時の軍事独裁者と対峙した。彼女はロンドンの小さな部屋に移り住み、そこでわれわれは国の将来について終わりのない討論をした。彼女は、パキスタンがハゲタカから救済され、軍人支配から抜け出すには、土地改革、大衆教育プログラム、医療サービス、独立した外交政策が、積極的で建設的な目標であり、決定的であることに同意した。彼女の支持者は貧しい人びとであり、彼女はその事実を誇りに思っていた。
 首相になった後、彼女は再び変わった。当初、われわれは議論した。私の無数の不平に答えて彼女が言ったすべては、世界は変わったということだった。彼女は歴史の「悪しき側面」に立つことはできなかった。そこで彼女は、多くの人びとと同様に、米国と折り合いをつけた。最終的に彼女がムシャラフと交渉し、十年間の亡命生活の後に帰国することになったのはそのためだった。多くの機会に、彼女は自分は死を恐れていないと私に語った。それはパキスタンで政治をやる上での危険の一つであった。

 この悲劇から何か良いことがもたらされると想像するのは困難である。しかし一つの可能性が存在する。パキスタンは、圧倒的多数の民衆の社会的必要のために語ることができる政党を、どんなことがあっても求めている。ズルフィカル・アリ・ブットが創設した人民党は、この国が経験した唯一の民衆的大衆運動の活動家によって建設された。一九六八~六九年に三カ月にわたって学生、農民、労働者はパキスタンの最初の軍事独裁者を倒すために闘った。彼らは人民党を自分たちの党と見なした。その感情は、あらゆる出来事にもかかわらず、この国の一部の地域において現在にいたるまで持続している。
 ベナジル・ブットの恐ろしい死は、彼女の同僚たちに再考のための小休止の時間を与える。一人の個人や家族への依存は、一定の時期には必要かもしれないが、それは構造的な弱さであり、政治組織にとっては力とはならない。人民党は、誠実な討議と議論に開かれ、社会的権利と人権を擁護し、あらゆる中途半端でお上品な対案に絶望しているパキスタンの多くの異質のグループや個人を統一し、占領され戦火に引き裂かれたアフガニスタンを安定させる具体的な提案を出す、近代的で民主的な組織として再建される必要がある。それは可能だし、なされるべきである。ブット家にもっと多くの犠牲を求めるべきではない。(初出は「ガーディアン」紙07年12月28日)

●タリク・アリは、とりわけベトナム戦争からイラク戦争にいたるまでの反帝国主義キャンペーンで活動してきた社会主義者の著述家、TV・ラジオキャスター。パキスタンで生まれ育った彼は、現在はロンドンに居住している。
(「インターナショナルビューポイント」07年12月号)

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