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8月18日、パキスタンの軍事独裁者ムシャラフが、大統領の座からの退陣を表明した。
しかし、パキスタン政府・連立政権は、大衆の「犯罪者ムシャラフの逮捕」を求める大きな世論に反して、ムシャラフの訴追回避と国内滞在の自由などを認めるという許しがたい決定を20日に下した。
この一連の経過と現情勢、そしてパキスタン左翼の任務と展望について、パキスタン労働党(LPP)のファルーク・タリクが同党のホームページに論評を寄せている。翻訳して掲載する。
ムシャラフは去った。次は?
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独裁者は去れども、その政治は終わっていない
8月19日 ファルーク・タリク
http://laborpakistan.org/latest%20news%2019.08.08.htm
2008年8月18日、独裁者ムシャラフの恥多き退場を数千の人々が街頭で祝福した。彼が、一時間にもわたって全国放送のテレビで予定外の演説で辞職を発表すると、民間のテレビ局は四つの州すべてで即時に辞任を歓迎する意思表示をしたと報じた。ムシャラフは、パキスタン人民党(PPP)が率いる四つの政党の与党同盟による弾劾の動きに直面して、パキスタンの大統領を辞任した。
初めてすべての政党が、連立与党による弾劾の動きの発表について、ムシャラフ将軍を擁護しなかった。彼は議会・政党政治の分野において、孤立に直面した。ムシャラフが長い間協力してきたムティヒダ・カウミ党(MQM)さえ、ムシャラフを公然と防衛しようとはしなかった。四つの地方議会はすべて、ムシャラフを問責する決議を可決した。シンド州議会とバルチスタン州議会は満場一致、パンジャブ州議会で90パーセント以上、北西辺境州(NWFP)で98パーセント以上がムシャラフに反対する投票を行った。
ムシャラフ将軍によって取り立てられた政治家たちの多くが棄権投票したのは、大衆のムシャラフ将軍に対する激しい怒りのためだった。四州すべてでの決議は、ほぼ9年間にわたってアメリカ帝国主義が支持してきた独裁者ムシャラフの社会的基盤をきわめて弱体化させた。
この一年間だけで、ムシャラフ将軍が権力を失う機会はすくなくとも四回あった。
ムシャラフ将軍は、2007年12月27日にベナジール・ブットの暗殺の後、ほぼ八カ月間権力を維持するために、彼はPPPの指導部に頼らなければならなかった。PPP指導部がムシャラフの即時の辞任を要求することを決めたならば、彼は力を失っていたのだ。暗殺の後の五日間、パキスタンは大衆によって沸きかえっていた。残念なことに、PPP指導部は総選挙に参加することに決めたのだ。
それ以前の2007年7月20日、パキスタンの最高裁判所長官の復帰の後、最高裁判所の裁判官はムシャラフ将軍の運命について決心がつかず、彼が軍服を着て大統領の座を争うことを許してしまった。その結果彼は再び議会によって、大統領に「選ばれた」。そして、それは五年の間選ばれるだけの議会が、十年の大統領を選んだのだ。しかし、パキスタンの最高裁判所がその権力に疑問を呈しようとしたとき、ムシャラフはそれを阻止するために、最高裁判所の最終的な決定を前に、2007年11月3日最高裁判所の裁判官のすべての権限を停止にするという独裁的な権力を行使した。
2008年2月18日の総選挙の結果は、完全にムシャラフ将軍に反対するものとなった。しかし、選挙の後、ムシャラフ将軍の辞任を求める代わりに、PPPは彼とともに進むことを選んだ。これは、ムシャラフ将軍が政権を握り続けるというもう一つの機会を与えることとなった。
約束した通り、PPP指導部は権力を握って一カ月以内に最高裁判所の裁判官を回復させなかった。最高裁判所の裁判官の権限が回復すれば、裁判官に大統領ムシャラフの選定に疑問を呈している何通かの嘆願書を審理するチャンスを与えていたのだが。それゆえに、第四の機会は浪費された。
非常に嫌われる経済政策を実行した後に、PPP指導部は歴史的な速度で人気を失った。ムシャラフを取り除くという決定をしなかったなら、将軍はPPP率いる連立政権を取り除くことになっただろう。PPPは、不人気のギアを逆にすることを決定し、これはしばらくの間成果をあげた。
ムシャラフ将軍には、いつでも議会を取り除く独裁的な力がある一方、彼はその社会的基礎を失っていった。彼は、PPPの指導部より不人気となった。
ムシャラフ将軍の退場は、パキスタンで長い時間を経た後の非常に良いニュースのうちの一つだ。それは、軍の将軍の敗北だった。それは、つねに軍の将軍の影に隠れようとする政治的傾向にとって大きな後退である。それは、非常に喜ばしいニュースだった。
若い弁護士たちの闘い
ムシャラフ将軍は、最後の一年半の間に、彼に対する大規模な大衆の抗議に直面して力を失うこととなった。
多くの重要な闘いが、ムシャラフ将軍の九年間の軍事支配に起こった。2001~2005年の間のオカラ軍事基地に対する土地権利のための農民闘争は、社会で最も虐げられた層の間で、社会的雰囲気を醸成した。2005年6月の民営化に対する電話通信労働者による十日間の全国ストライキは、軍事独裁政権に対する労働者意識のもう一つの現れだった。大きな問題となっていたカラ・バグダムの建設に対するシンド州の成功した大衆反乱、ナワブ・アクバル・ブグチの殺害に対するシンド州とバルテスタン州での三日間のゼネストは、もう二つの重要な闘いとなった(訳注-バルチスタン州では住民の自治権拡大と資源の自主管理を求める闘争が起こっていて、2006年の政府軍による部族長ナワブ・アクバル・ブグチ暗殺にストライキや街頭封鎖などの激しい戦いが続いたことを指している)。しかし、これらの反乱には全国性がなく、孤立するままだった。
独裁者を辞任させた主要な要因は3月9日のパキスタンの最高裁判所長官の更迭の後の戦闘的な弁護士の行動だった。総勢八万人の弁護士の行動は、巨大なエネルギーが一年半の間一貫して費やされ継続した。若い弁護士は、この重要な運動で決定的な役割を果たした。
PPP率いる連立政権は、この動きによって大きな尊敬を獲得した。しかし、ムシャラフはパキスタンを手放したままにはしないだろう。彼の辞任の後でさえ独裁者のための忠実な護衛兵は、あきらかに彼の手元にある。独裁者ムシャラフに彼の辞任の後、安全な通行と豪華な隠退生活が提供されようとしている。
権力からの離脱の後の軍指導者のための安全な通行の伝統は、変更されなければならない。殺人と他の犯罪の容疑でムシャラフを逮捕することがきわめて人気のある要求となっていた。ムシャラフ将軍は逮捕されなければならない。「政治からの軍の排除」は、将来の主要なスローガンでなければならない。パキスタンは独立から62年のうち32年が、直接の軍事支配だった。しかし、憲法を破った罪で裁判にかけられた軍の将軍はまだいない。
現在のパキスタンの強力な社会運動は、軍事独裁者の退陣だけで沈黙したり満足したりはしない。
今後左翼勢力が問われる
ムシャラフ将軍の退陣後、階級闘争の新しい波がパキスタンで爆発するだろう。PPP政府は、価格上昇などの主要な問題を解決しないことに弁解すらしない。新自由主義の政策の実施は、労働者階級のすべての部分によって疑問を呈されている。PPP率いる連立政権は、経済政策ではムシャラフの方法を受け入れさせる以外にない。かれらは、残りの公共部門機関を民営化したいのだ。かれらは、いわゆる「対テロ戦争」において、アメリカ帝国主義とのパートナー関係をそのままにしたいのだ。かれらは、ムシャラフが公然とすることができなかったことをしたいのだ。かれらPPPとPMLN(パキスタンイスラム教徒連盟ナワズ・シャリフ派)の資本主義的かつ封建的な連立政権とは、多数の基本的な問題の解決のどれをとっても、惨めに失敗することを余儀なくされる。
ムシャラフ独裁の終焉の後の連立ハネムーンは、長くは続くだろう。ミアン・ナワズ・シャリフ(1990年代に首相を務めた政治家。1999年のクーデターでサウジに追放され2007年9月に帰国したが即座に逮捕・追放された。11月に再び帰国し熱烈に歓迎された)の経済政策は、PPPと少しも異ならない。とにかく、裁判官のための、そして、独裁者に対する闘いについての強い支持は、PPPよりPMLNのほうがより多くの敬意を獲得した。
PPPは、長い期間に失われた基盤のいくつかを取り戻したが、それは長くは続かない。新自由主義の政策の実施は、いくらかPPPの顔の埃を取り除くだろう。金持ちの極右派は、長い期間の過去の改革計画に自身の根拠をおくことができない。裁判官の地位の回復がもし約束通りに行われれば、それらにさらにいくらかの尊敬をもたらすだろう。しかしながら、それも大衆によって経済分野でテストされるだろう。独裁政治に反対する手段はすべて、それが彼らの悲惨な生活を終了させるのに役立つという見通しのために大衆に歓迎されるのだ。連立政権への期待は今、過去よりはるかに高い。しかし、この政策のどれも成功はしない。大衆は今度は、「政治問題」ではなく「経済問題」に注目するだろう。
階級闘争の新しい時代は、強力な左翼と社会運動の形成のための挑戦となるだろう。宗教的原理主義者は、「反帝国主義」と誤って見なされている。かれらは政治的な基礎を強化するためにさらに、その分野で働くだろう。しかしながら、かれらは大衆の抱える問題を解決をしようともしない。左翼の隊列は「反帝国主義」と誤って見なされている親帝国主義者および宗教的原理主義者と戦わなければならない。それは左翼主体形成のための困難な客観的条件だ。しかし、他の道は左翼を後退させることになるだろう。
独裁者は去れども、その政治は終わっていない。これからが、パキスタン労働党と他の左翼勢力が現在直面している課題に対する本当の挑戦が始まるのだ。
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