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以下、反資本主義新党(NPA)の「結成原則」を掲載する。この文書は、NPAの掲げる「エコロジー」と「フェミニズム」を柱とした「21世紀の社会主義」の、言わば「過渡的マニフェスト」である。
リアルに学び、理解し、この「反資本主義」の潮流を日本における社会運動・階級闘争にどのようにアプローチしていくのか、という観点から論議していこう。
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結成大会で採択
この結成原則は、賛成540、反対1、棄権49、投票不参加5で採択された。
▲4月にパレスチナを訪問したブザンスノー
これは、完全で詳細な綱領でも、「マニフェスト」でもなくて、われわれが訣別したいと考えている今日の社会に対する根底的な批判、われわれが望む社会の原則を提起する批判的検討、その社会に到達するための戦略について、われわれの基準となるものをまとめたものである。これらの原則は、次のようなわれわれの政治的身分証明証である。資本主義のグローバル化された危機に対する唯一の解答、人類の未来がかかっている闘い、それは、民主主義とエコロジーとフェミニズムの、21世紀の社会主義を目指す闘いである。
資本主義システムは、食料、経済、エコロジー、エネルギー、金融、医療、社会、国際的緊張と戦争というさまざまな危機が結合した危機を生み出しており、その結果は常に悲劇的なものとなっている。
労働者と人民に対する支配階級による利潤を増大させるための攻勢という明確な性格をもつグローバリゼーションは、資本主義的生産様式それ自身の深い根本的な危機にまで行き着いている。
1980年代以来、それは、より大きな国際的分業の枠組みのもとで搾取と労働者間の競争を激化させ、あらゆる種類の不平等を拡大し、帝国主義的関係の枠組みのもとにおかれた諸民族への略奪を永続化し、資源を荒廃させ、地球を破壊している。
資本の支配がもたらす災禍は、「社会主義かバーバリズム(前近代)か」という二者択一をまったく今日的意味をもつものにしている。
利潤の名のもとに、資本家は無駄または有害な(あるいはその両方である)商品の過剰生産を組織しているが、その一方で、地球上の人類の半分に近い30億以上の住民が、1日1ユーロ未満で生活している。10億人がスラム街に住み、9億7000万人が栄養失調にかかっている。FAO(国連食糧農業機関)の総裁によれば、食料不安を解消するには15年間で200億ユーロで十分なのに、数千億ドルが投機家を救済にするため
に消えてしまっている。
温室効果ガスの濃度はすでに気候の温暖化をもたらしている。この傾向は一貫して上昇し続けていて、その上昇予測が急騰する地点にまで達しているし、天候不順とともに引き返しできない地点にまで至っている。その結果はすでに現れており、よりいっそうの悪化に向かっている。すなわち、あるところには洪水が、別のところでは旱魃が、大きな被害をもたらす暴風雨、数多くの生物種の激変と消滅、生物学的多様性の破壊、農業危機が生まれているのである。資本主義の生産力主義は、大気、水、農産物の汚染によって住民の健康の悪化をもたらしている。
直接にその生存自身が脅かされている人々は数百万人にのぼるが、まず第一にその脅威にされされているのは最も貧しい人々である。しかしながら、これら人々は、まず温室効果ガスの排出に責任がより少ないのであり、こうした事態は住民の大規模な移住をもたらす可能性がある。
▲TOYOTA工場でレイオフ攻撃にストで闘う労働者を支援するブザンスノー
代替エネルギーとして押しつけられている民間の核エネルギー、そして軍事用核兵器は、環境および労働者の健康と安全ならびに住民と未来の世代にとって大きな脅威となっている。
以上の確認される事実それ自身だけでも世界の資本主義的編成の社会的、エコロジー的勘定書の高さを十分に説明しているのであって、そこでは汚染する権利に対する投機さえ合法化されている。またこれらの事実は、少しずつの継続的な進歩が生活条件の全般的な改善と不平等の縮小をもたらすとみなす体制支持者たちの言説が有効性を欠くことを明らかにするに十分である。それどころか、経済成長期においてさえ不平等は急速に拡大した。
フランスでは、最も豊かな10%の層が国の資産の46%を保有しているのに、INSEE(国立統計経済研究所)によれば、2006年には790万人近くの人々が貧困限界水準以下で、すなわち、月880ユーロ(2009年時点の為替相場では約11万5千円)未満で生活している。この20年間において、OECD諸国の3分の2の諸国で、不平等が拡大し、貧しい人々の数が増大した。利潤の論理はすべての人間活動の一貫して拡大し続ける商品化(とりわけサービスの貿易に関する一般協定を通じた公共サービスの分野での商品化)と不可分である。それは、土地、諸機関、個人を競争下におき、社会的絆と連帯の破壊を伴っている。この破壊は、労働者の生活とは相容れないものであって、その生活を打ち砕く。
生活条件は悪化している。経営者は、次々と労働者を解雇し、できる限り低い賃金で労働者を獲得しようとして労働者間の全世界的レベルでの競争を激化させ、職場の権利を破壊している。不安定状態が爆発的に出現している。不安定な下請け契約が増大し、労働者を新しい社会的区分のもとに置き、労働界を分裂させている。CDD(有期雇用契約労働者)、見習い期間中の労働者、失業者、補助金付き雇用、望まないパートタイム労働、派遣労働、RSA(就業連帯所得)身分などがそれである。フレキシビリティと労働のテンポの強化は労働条件の悪化(苦痛、事故、職業病、自殺)を生み出している。
公共サービスは解体されつつある。それらのうちの最も収益性のある部門は民営化される。新しい市場の絶えざる追求は、消費にもとづく油断のならない操作されたモデルを押しつける。こうして、個人は、フラストレーションとシステムへの従属とを同時にもたらす新たな不断の誘惑の創出に従わされる。
社会的保護は後退している。定年退職の権利は見直されている。環境は、エコロジーの破局の脅威が生じる地点にまで悪化している。
この危機の根源にあるのは、人口の中のごく少数の連中による抑制のない利潤追求である。
今日の破産は、破綻した体制の論理的帰結である。一方において信用と負債経済が無制限に発展しているが、他方では最大限の利潤を追求する支配階級が大量の失業と不安定性を維持し、賃金を凍結しているだけに市場はより限定されたものになっている。現在の破産は、この両者の間の矛盾の産物である。
この論理は、金融、ビジネス、多国籍企業、銀行、投機機関、それらに対する政治的同盟者、政府、それらに奉仕する国際機関(IMF、WTO、EU、欧州中央銀行、世界銀行)によって展開されている反社会的な闘争の産物である。それに対しては全国レベル、ヨーロッパ・レベル、全世界的レベルで闘わなければならない。
地球全体への資本主義の発展と商品領域の拡大に対応して、かつてない環境の危機が生まれている。たとえ人類社会がすでに資源の非合理的な利用のために環境上の危機の問題に対処せざるをえなくなっているとしても、危機がこのような規模になり、それが今後地球のすべての住民に影響を及ぼし、さらにいっそう社会的不平等を拡大するというような事態は人類史上はじめてのことである。資本主義的グローバリゼーションのもとではおよそ平和に向かうにはほど遠い事態なのであり、この中で、われわれはまた過剰な軍備増強と国際的な緊張と紛争の激化とを目撃している。イラクから、アフガニスタン、アフリカ、パレスチナを経てグルジアに至るまで、フランスを含む帝国主義列強がそれらの地域に対してその支配を押しつけ、軍需産業を含む多国籍企業に膨大な利益をもたらすために資材資源や第一次産品や石油を支配下においてきた。この侵略政策は、結果として、諸民族を分断する手段である、ナショナリズムや宗教的統合や地域共同体的論理を刺激している。
したがって、帝国主義国の反資本主義者はまず何よりも自国の資本家および自国の帝国主義国家ならびにその軍隊に反対して闘わなければならない。われわれが、被支配諸国の労働者や資源を搾取しているフランス企業に対してこれら諸国の労働者と人民がこれらのフランス企業の没収を支持するのは、この意味においてである。さらにまた、この意味において、われわれは、フランス(あるいはまた他の帝国主義国)の軍隊が展開しているところではどこであろうと、民衆の抵抗と帝国主義軍隊の軍事的敗北を支持する。
平和はこの体制とは両立しえない。「厚い雲が雷雨を宿しているように、資本主義はそれ自身、戦争を宿している」(ジャン・ジョーレス)。
この政策は、搾取の体制を維持するという要求や市場経済に適応しそれに従ったりそれを賞賛したりしている左右のすべての政党と政府に対して資本家階級が指令しているものである。この政策は民主主義の圧殺を伴う。民衆は、展開されている政策に対しても、支配的イデオロギーに奉仕するためにメディアや報道機関と共謀してそれらの政策を実施している議員たちに対しても、何ら統制することができないのだ。
われわれは、政治闘争を展開するために民主的権利を活用し、防衛し、それを生かす。今日の国家とその諸制度を政治的・社会的変革に役立つようにすることは不可能である。これらの機関は、ブルジョアジーの利益を守るために編成されているのであって、それらを打倒して、労働者と民衆に奉仕し、それらの管理下におかれた新しい諸制度を樹立しなければならない。資本主義の暴力とはまた、階級的裁判制度であると同時に警察の暴力でもある。郊外の反乱から、サンパピエ(滞在許可証を持たない移民)の子供たちや体制と闘うすべての人々への犯罪視、さらには青年や労働者のデモへの弾圧に至るまで、いたるところで、警察と裁判制度はこの抑圧の体制を防衛している。
この体制の論理は、それが真面目なものなのか欺瞞的なものなのかとは関係なく、体制をより道徳的にましなものにしたり、調整したり、改良したり、人間化したりしようとする主張をを無効にしてしまう。その論理は、どのような点で幸福や民主主義や平和が大規模生産手段の私的所有と両立しえないのかを日常的に立証することによって、まさにそれ自身によって体制の打倒と社会の革命的変革の諸条件を生み出す役割を果たしているのである。
2、もうひとつの世界は可能だ:21世紀の社会主義
民衆の大多数は肉体労働者であろうと知的労働者であろうと、労働者によって構成されている。それは、雇用されていようと職を奪われていようと、現役の労働者であろうと定年退職していようとそうしたことに関係なく、最も多くの場合には賃金と引き換えに用いるべきものとして労働力しかもたない存在である。教育過程にある若者の圧倒的多数は、この労働者階級に加わることになる。
賃金労働者と搾取されている民衆全体にとって、破産したこの体制の根源それ自体に手をつける以外の別の解決策は存在しない。退廃した金融資本主義と対立する「よい」生産的資本主義などというものはない。産業資本と金融投資資本とはずっと以前から長きにわたって相互浸透し合ってきている。資本主義的グローバリゼーションは、第二次大戦後の好況が終了した時に生じた利潤率低落に対する工業諸国のブルジョアジーの回答であった。
過去30年間にわたって、労働界は株主の利益のために自分たちの収入をたえず減少させてきた。(1982年には、株主の配当金が賃金総額のうちの4.4%を占めていたが、それが今日では12.4%になっている)。このために、資本家は自分たちの製品にとって支払能力のある市場を見出すことがますます困難になっている。この情況の圧力を受けて資本家はたえずますます多くの資本を投機へと振り向けさせざるをえなくなっている。これは、金融化へと向かう資本主義の本来的傾向をよりいっそう強めさせている。
展望としてあてにならないより「人間的な」資本主義への復帰にかけることは、したがって、およそ現実的ではないだろう。「黄金の30年間」の時期は経営者の主張が制約されて枠組みがはめられていた時代としてまだ記憶の中に残っているが、そのような情勢は、大きな階級闘争と革命を通じて形成された力関係の結果からもたらされたのであった。そこに到達するまでには、1930年代の大恐慌の苦痛とファシズムと戦争の恐怖を経験しなければならなかったという点は別にしてもである。
この危機を片付けるということは、その搾取と手を切るということを、したがって、その基礎をなしている主要な生産・交換・通信手段の私的所有と手を切るということを意味する。金融システム、生活に不可欠なサービス、大企業は、労働者と民衆の管理下におかれなければならないだろうし、労働者と民衆はこれらの資産を引き受け、民主的な計画化の枠組みのもとでそれらを管理するであろう。富の生産と分配は、資本主義的な所有ならびに取得から解放されて、社会全体に利益をもたらすことができるようになるだろう。食べること、暖まること、住むこと、治療を受けること、教育を受けること、耕すこと、移動すること、これらはすべての人に対して保障されなければならない不可欠な要求である。
社会主義、エコ社会主義とは、政治、経済、社会のすべての分野におけるすべてのレベルでの労働者の権力である。それは、何を、いかに、いかなる目的で生産すべきかを自由に全権をもって決定する連合する生産者の民主主義である。このような経済と社会の再編成は、労働者と市民の集団が実際に企業の運営と公共の仕事の管理を実際に引き受けることができるようになるために不可欠な第一段階の労働の解放を前提とする。テクノロジーの進歩によって可能となっている労働時間の大幅な短縮、それに加えて失業を解消して必要労働をすべての人の間で分配することが、この必要に応えるものを提供することになるだろう。
搾取と抑圧から解放された社会はすべての病気や障がいや健康上の問題を回避することができるなどという幻想を抱いているわけではないが、われわれが闘い取ろうとしてしている健康への権利はまず何よりも、最大限の利潤追求に基礎をおく社会と結びついた不健康状態、労災事故、仕事によるストレス、有毒製品や劣悪な品質の食品や公害にさらされることを防止することにある。
人間によるもうひとつの生産としての文化的、芸術的創造はそれ自身独立したものではない。それは、イデオロギー的、政治的な緊張に貫かれている。文化や芸術やメディアが支配的イデオロギーの防壁であり、したがってそれらが万人の解放にとっての重大な桎梏となっている以上、資本主義体制に対する根底的で真剣な一貫した批判は、文化と芸術とメディアに対する根底的な批判なしで済ますことはできない。資本主義から解放された社会は、すべての個人にこれらの創造を保障し、その商品化に終止符を打つだろう。文化、芸術、メディアを民主的に再び取り戻すことは、第一の試金石である。
社会主義がフランスでのいわゆる「社会(主義)」党のような社会民主主義組織の資本主義的政治とはまったく無縁であることは明らかである。同様に、それは、旧ソ連邦や中国のように、その名称を簒奪した官僚的独裁とも根本的に対立するものである。それだけにとどまらず、この独裁体制は、自らが闘うと主張したまさにその搾取と抑圧のメカニズムを再生産し、生産力主義を通じてそれらのメカニズムの最悪のものを促進した。われわれが望んでいるのは、社会の自主的な組織化と民主的な自主管理の方向へと進むことであり、それは、結社ならびに政党、労働組合、団体の表現の最大限の自由を意味する。資本主義体制のもとで勝ち取ることができた民主的自由は、打ち固められ、発展させられる。社会主義、それはまさに、最も確かで最も拡大された民主主義の支配である。
よい生産的資本主義がありえないのと同様に、よい「緑の資本主義」もありえない。
資本主義との決別のみが民主的で合理的な経済的選択を可能にするのだから、この決別は、破局的影響を増大させ始めているエコロジーの危機を阻止するための必要条件である。その目的が社会の利益であってもはや利潤ではないような社会の新しい組織化という枠組みのもとでは、自立し責任をもった生産者と市民が集団のためになるような経済活動を決定するだろうし、民衆と環境を危険に陥れる経済活動を退けるであろう。われわれの望む社会主義は、生産の無制限の発展をけっして提案しないのであって、それどころか社会の必要をエコロジーの観点から満たすことに立脚している。これがエコ社会主義である。資本の独裁から解放された社会のみが人間と自然とを調和させることができるだろう。
われわれは、すべての人の個々の成熟を促し、促進する集団的組織化のシステムを建設したいと考えている。それは、人間がもはや手段ではなくて目的とみなされる「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件である連合」(マルクス/エンゲルスの1848年の『共産党宣言』)である。資本主義体制は、支配の全体的規範と民衆の階層化によって支えられている。したがって、少数派は、これらの規範に従うことを拒否し、既存の秩序に順応することを拒否すると、モラル的圧力や烙印や拒絶、さらには言葉上での暴力やモラル的暴力や肉体的な暴力に直面することになる。社会主義は、あらゆる種類の抑圧、あらゆる人種差別主義、一切の差別の終結を、そして文化、言語、性的嗜好、哲学的、宗教的意見、行政と公権力の非宗教性の尊重を意味する。
社会主義は、とりわけ、女性に対する固有の抑圧の終わりを意味する。この抑圧は、資本主義以前からのものであるが、資本主義が自身の目的のために統合し、手段として利用してきたものである。われわれは、社会のあらゆる分野でこの抑圧を見出すことができる。それは多様な形を取って社会のすべての階級を貫いている。女性への抑圧は階級的搾取や人種差別主義や異性愛的規範に合致しない諸個人に対する暴力などの別のタイプの支配と重なり合う。人類の半分が従属的地位にとどまり、性的分業、企業や政治生活における差別、二重労働日、家父長制家族、家庭内や職場や街頭などでの暴力の犠牲になり続けているかぎり、いかなる人も自由ではないだろう。自身への抑圧に反対する女性の闘争は、資本主義支配に反対する闘いの不可欠な側面である。
女性の完全な解放なしには社会主義は存在しないだろう。そして、とりわけ民衆の世界での女性の解放は、利潤の法則の支配の終結と社会的必要の充足に基礎をおいた新しい社会の存在を必要とする。
社会主義は必然的に国際主義的である。それは、新植民地主義的フランスがアフリカや海外県で維持しているような搾取と帝国主義的従属の終結を意味する。それは、食料主権や水の利用権のような民族自決権、すなわち、各民族が自分の将来を自ら決定する各民族の権利を承認し、最後のフランス植民地の諸民族をはじめとする被抑圧民族の民族解放闘争を支持する。われわれはまた、フランス「本土」の国境内にとどまりながら社会主義を建設することは不可能であるという点を認識している。フランスと近隣諸国における反資本主義のいっさいの勝利は、ヨーロッパへそしてさらに広く全世界へと自らを拡大していく使命を帯びるだろう。
3、やつらの利潤ではなくてわれわれの生活を
今日の闘争においてわれわれが提案している目的を通じて、われわれは、社会的、民主的、エコロジー的な緊急課題に応えたいと思う。
それは、トーンダウンした最小限綱領ではなく、体制を見直しわれわれが望む社会主義を準備する一連の大衆動員目標であり、政策である。
われわれは、当面の必要に応えるために、生産手段の資本家的所有を問題にし、賃金や退職年金や社会的最低生活費を引き上げ、民衆の必要を満たすために資本とその利潤に手をつける緊急要求綱領を擁護する。
この綱領は、主要40社をはじめとする大資本家グループの無償没収を通じた労働生産物ならびに基幹部門のサービスの、労働者と民衆による管理下での社会的所有を主張する。
医療、教育、水、エネルギー、交通、電気通信、郵便、育児、高齢者への保障のような一定の分野は、世界の公共共有資産とみなされなければならないし、平等の利用と給付による万人の社会的必要全体を満たすという唯一の目的に沿って労働者と利用者によって管理され、統制される公共サービスでなければならない。
労働は商品ではないし、労働者は調整変数ではないのだから、解雇は、解雇する企業が賠償請求に応じるという条件がなければ禁止されるべきである。賃金は、総合的な社会保護によって失業中にも病気期間中も定年後も見習い期間中も維持されるべきである。
われわれにとって民主主義は企業の門前で停止しはしない。自らの労働条件や労働の編成を決定するのは労働者である。
今日組織されているような労働は、労働者の健康を消耗させ、その健康を損なっている。大量の失業は経営者にしか利益をもたらさない。失業をなくすレベルまでの労働時間の短縮と分配が必要である。
エコロジー、フェミニズム、LGBTI(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー・インターセックス)の闘い、反人種差別、反ファシズム、インターナショナリズム、あらゆる形態の差別と抑圧に反対する闘い、障がい者や病人の排除、世代相互間の連帯は、第二義的なポーズなどはなくて、われわれのプロジェクトの核心部分に位置している。
エコロジーの緊急性は、自然に対する人間領域の無制限な破壊の拡大の、したがって、あらゆる形の生産力主義、の考えを退けることを意味する。気候、エネルギー、食糧の問題に関して、地球破壊の論理を覆すには民主的計画化が必要になる。現在の生産・消費方式に反対し、われわれは、経済の再配置、富の再分配、再生不可能な資源の消費の削減を、そしてエネルギーを食ったり無駄であったり公害を生み出したり危険であったりする活動部門、とりわけ原子力、の見直しを提案する。
水、大気、大地、生き物は私有化(民営化)できない共有の資産である。
それらの利用を統制することがわれわれの中心的関心事である。
そのためには、社会的必要を満たし、資源を節約し、環境を保護することを目指して、運輸、水、エネルギーは、労働者と利用者によって統制される公共サービスによって管理されなければならない。
われわれは、核エネルギー利用からの早急な離脱のために闘う。
農業は、アグリビジネスと農業投機の利益のために全世界至る所で農民を犠牲にしている資本主義の破壊的影響を免れてはいない。
土地と農村空間との尊重にもとづく健康で高品質の改善された食材の生産という使命を農業地域に対して再び与えて、食糧主権を確立することが緊急に必要である。
活気に満ちた農村における労働で生活する数多くの農民を維持することは、農村世界における社会的ネットワークの再建を促進するだろう。
NPAは、いっさいの遺伝子組み換え作物の生産に反対する。
資本主義の抑圧はとりわけ貧困地域に存在している。そこでは恵まれない住民が集中して居住している。これらの住民は、その一部が移民家庭の出身である場合が多く、差別され、社会から烙印を押され、警官の暴力の犠牲者となっているが、こうした困難の直面しているのは若者だけではない。
あらゆる形の性差別主義と女性に対する不平等と暴力に反対し、自分の身体を意のままにする女性の権利(自由で無料の堕胎と避妊の権利)、質の高い公共サービスの発展、女性の抑圧や伝統的な役割分担と闘う団体の組織化、を目指す非妥協的な闘いは、われわれの綱領の不可欠の部分である。多かれ少なかれ内部の対立を抱えている異なるさまざまな社会運動をひとつにまとめ、自らの権利を目指す女性の自主的組織化だけが男性支配から解き放たれた社会を準備し、促進することができる。しかしながら、数世紀のわたって歩んできた女性の解放のための闘いの春はいまだ実現されておらず、社会主義社会の枠組みのもとでさえ、なお先の将来に残された課題になると想定することができる。
党のあらゆるレベルにおいて、女性は、それが有効であるあると自ら判断した場合には、常に男女混合でないやり方で集まることを選択する権利をもっている。限定された期間だけかそれとも常設かにかかわりなくこの種の女性だけの会議は、党内の反女性差別主義的文化の発展にとって重要な手段となりえる。
われわれは、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、インターセクシュアルの人々が受けている抑圧、差別、暴力と不当な仕打ちに反対して非妥協的に闘う。われわれは、LGBTIの人々の権利の全面的で完全な平等を要求する。
これらの抑圧は、ヘテロセクシュアル的基準やジェンダーに合致しないセクシュアリティとアイデンティティに対する憎悪を表現している。
われわれは、社会生活の中で障がい者にかけられている差別に反対して闘う。障がい者は、就労の権利、教育を受ける権利、住宅への権利、公共交通の利用の権利、治療を受ける権利、文化を享受する権利をもたなければならない。
われわれは、政教分離の原則、とりわけ教会と国家との厳密な分離の原則、を強く求めていることを確認する。
われわれは、青年のための無料の非宗教的な知識、研修、教育への自由な利用を擁護する。だが、われわれは、社会の諸階級の再生産をイデオロギー的に育成したり、固定させたりするような学校制度や教育制度を弾劾する。
解放の要素としての万人への教育の機会は、財源の増加だけに限られるものでも、抽象的な権利によって決められるものでもない。それが有効になるためには、同時に各人がいかなる年齢であろうと、向けられた関心の分野がどのようなものであろうと、そのすべての分野で勉学を行い、各人が勉学を継続したり再開したりする自由を妨げている財政的制約や収入から解放される可能性を伴わなければならない。
われわれは、いわゆる少数派言語とそれらの言語の保存と発展を目指す政策の実施を承認する。
われわれは家庭や職場での青年への抑圧と闘う。働く青年は、不安定雇用(CDD=期間限定の雇用、派遣、無給の見習い、望まないパートタイム、失業)の驚くべき増大の影響をもろに受けている。これは、企業にとっては実に好都合な事態であり、企業は、経営者に有利な力関係の結果として、どのような労働条件や給料をも受け入れる用意がある自由に使い捨てできる労働力を見出せるのだ。
すべての害悪に責任ある存在として貧困地域の青年や移民家族出身の子供たちにレッテルが貼られていて、差別とレッテル貼りの犠牲となっている。こうした差別とレッテル貼りをわれわれは糾弾する。
人種差別主義の一掃は、人種差別主義や排外主義やそれらに由来する差別のすべての形態に反対する大衆動員と根本的な政策が、社会の内部で醸成されるこの毒に対処できるレベルにまでなることを前提としている。投票権、すべてのサンパピエ(滞在許可証を持たない人々)の往来と定住の自由および滞在許可証の正規の発行を含むフランス人と移民との間の平等が必要である。
移動生活を送る住民の生活様式は承認され受け入れられなければならないし、移動許可証は廃止され、投票権がそれらの人々に与えられなければならない。
NPAは、その抑圧が人種差別的か、性差別主義的か、反ホモセクシュアル的か、排外主義的かにかかわりなく、それが消滅するに至るまで、抑圧された人々が共通して抱えている抑圧の名のもと自ら結集する自立的な組織化の形態を支持する。
反人種差別主義。それは同時に、植民地支配下におかれた諸民族とその抵抗の歴史を伝えることでもある。
NPAは、他の抑圧と搾取の形態に加えて、フランス植民地主義をはじめとする植民地主義に根本的に反対する。フランス植民地主義は、最後の直接的な植民地の中でいぜんとしてのさばり続けており、権力はこれを公式にDOM-TOM(海外県ならびに海外領土)と呼んでいる。NPAは、これら植民地の諸民族の無条件の自決権を支持する。NPAは、当該諸民族の民族解放闘争を留保なしに支持するであろう。NPAは、とりわけいっさいの搾取と抑圧からの人類の解放を目指すわれわれの価値観の不可欠な部分を共有している同志たちとの間で、尊重と平等にもとづく連帯の緊密な結びつきを発展させるだろう。
われわれの綱領はまた、弾圧機関(警察、司法、刑務所、軍隊)の行き過ぎや逸脱、貧困や社会運動を犯罪視する治安・刑務所に関する政策に反対し、公共の場での監視や統制や制限を引き上げる論理に反対して闘うための徹底した民主主義の要求をも含んでいる
われわれはまた、第五共和制の反民主主義的諸制度(議員のリコール制、国民議会における比例代表制などにかかわる諸問題に関係する諸制度)を一掃したいと望んでいる。
既存の制度と訣別する綱領を掲げる政府が取るであろう政策はもうひとつのヨーロッパを目指す大衆動員の不可欠な一環であることはまったく明らかである。それは、EUの諸制度と完全に手を切ったヨーロッパであり、民衆の社会的必要を満たすことを目指し、南北関係を根本的に変革することを熱望するヨーロッパである。
資本主義は、労働者と民衆の利益に敵対する役割を増大させている全一連の諸機関のもとに国際的レベルで組織されている。それだけに、国際的レベルでの大衆動員と闘争を発展させることはよりいっそう必要になっている。欧州中央銀行、OECD(経済協力開発機構)、IMF(国際通貨基金)、世界銀行、WTO(世界貿易機関)、NATOなどがそれである
われわれはこれらの国際機関の廃止を望んでいる。
歴史のコースを変えるためには、民衆の多数派、すなわち労働者と多様な民衆層が、民主的権利を発展させるために、政治のレベルにおいても職場と地域とにおいても、労働組合やアソシエーションへと自らを組織することによって、自分たちの力を自覚することが必要である。これらすべての機関の中で、NPAの活動家は、闘争における統一と反資本主義の闘いが促進されることを目指して闘う。この活動はこれらの機関の独立性を誠実に尊重しながらなされる。
その自覚が前進して、新しい世界についての考えが練り上げられ、民衆の要求が社会を指導するのかは誰かという問題を提起するようになっているのは、社会運動の分野においてである。これらの要求の収斂(しゅうれん)は、企業と社会の運用に対する労働者と民衆による管理の問題を提起する。
われわれは、すべての政治的、労働組合的、アソシエーション的潮流を連合させた社会運動の可能な最大限広範な統一的な大衆動員を支持する。
こうした大衆動員において、われわれは自主的な組織化の原則を擁護する。その路線と自身の闘争形態と自身の指導部を決めるのはそこで活動している者であるということが不可欠なのである。
われわれが攻撃を阻止し、要求を認めさせることができるのは、闘争や全面的な長期ストライキの発展と拡大を通じてである。体制と手を切った急進的な政策を導入し、社会の革命的変革を実施する政府を樹立することを可能にするのは、大衆動員から生まれる力関係である。
資本主義体制に終止符を打つということは、長期にわたる強靭な意志と数の力と支配階級に奉仕している国家や体制の諸機関やヨーロッパの諸機関や国際的諸機関との訣別を同時に前提とする。
4-自らを組織すること、行動すること、政治を行うこと、解放のための党
党とは、共同の社会的プロジェクトを擁護するために連合することを自主的に決意した人々を結集する、プロジェクトの作成と行動の集団的枠組みのことである。われわれが自分たちを党へと組織する決意をしたとすれば、それはわれわれが有効で組織的かつ一貫したやり方で行動したいと望んでいるからである。われわれは、自らが社会の闘争に取って代わるのではなくて、社会の闘争を推進し、それに全面的に参加し、そこにわれわれの考えを提起し、われわれの行動案を提案しなければならない。なぜなら、資本主義の攻撃を阻止し、社会と民主主義とエコロジーの面で前進を勝ち取り、社会主義への道を切り開くことができるのは可能なかぎり最大限に広範な大衆動員を通じてであることを、われわれは知っているからである。
体制内化された左翼(社会党と共産党)ならびにその同盟者となっている緑の党は、ずっと前からこの展望を放棄してしまっている。社会党と共産党はもはや社会主義と共産主義という名称だけを保持しているにすぎない。緑の党はそのエコロジーの熱望をあっさりと放棄してしまった。
社会党主導の制度化された左翼は、政権の座に就くと、民衆の熱望に背を向けてしまう。
この左翼は、野党の立場にある時には、右翼や経営者からの攻撃に対する反撃を組織しない。
共産党は、危機に陥り、選挙基盤と活動家の基盤を一貫して失い続けており、ますます深く社会党の衛星と化していくままにまかせている。しかしながら、この党の内部には今なおわれわれの闘争のいくつかの中でわれわれの側に取り戻すことができる戦闘的勢力が存在している。
これら左翼の政治的対応は、資本主義の途方もない危機に直面しても、体制と手を切ることを拒否しているので、この危機の中で賭けられているものに対処できないのである。
こうした潮流は解放のプロジェクトも希望も提供してはいない。これらの潮流が後退しているのはまさにこのためである。
今日の危機はこの後退現象を明るみに出したのだが、この現象のもとは局面的なものではなくて、もっと深い原因にまでさかのぼる。なぜなら、これらの潮流は、新自由主義のテーゼを支持する地点に行く着くほどまで新自由主義に自らを適応させ、その指導者者たちはもはや支配階級と自らを区別していないし、社会党は体制内での漸進的な改革の政策すらをも否定するようになっているからである。
資本主義体制に固有の諸矛盾と現在の危機は二者択一をより鮮明なものにしている。すなわち、特権をもつ少数者に屈服するのかそれとも特権的少数者と手を切るのか、と。
これらの制度化された左翼の党の内部とその周囲にいる多くの人々は、社会を根本的に変革することを放棄していない。
これらの人々とともに、そして全労働者とともに、われわれは別個の基盤の上に、屈服と手を切り、搾取された人々の新たな政治的表現を形成することに対するこれら左翼の否認とも訣別して、反資本主義新党を建設したいと望んでいる。これは、体制と最後まで闘う党であり、社会の革命的変革を目指す党である。
党はそれ自身が目的ではない。それは、相互に結集し合うための、集団的な闘いにおいて有効性を発揮するための手段である。
補完し合う二つの任務が相互に結びついている。すなわち、一方は、投降を生み出す現在の労働組合指導者たちの共謀と対決する階級的で大衆的な労働組合運動の共闘を構築することを通じて、社会運動の組織形態に参加することを通じて社会の闘争を発展させるという任務であり、もう一方は、解放の全体的綱領を擁護する政党を建設する任務である。
われわれが望む社会のイメージに似て、NPAも全面的に民主的であることをわれわれは望んでいる。それは、各自の党への参加のレベルにかかわりなく、党内で自らの役割を見出すことを前提とする。それは、われわれが決定に向けては平等であること、指導機関が明確に選出され、十分に下から統制され、リコール可能であること、政治的教育が組織されること、全党員の利益のために多数派が行動する権利が保障されるだけでなく複数の多様な観点が保障されることを前提とする。
それはまた、われわれの党がすべての活動家の永続的な教育の場であり、われわれが建設したいと考えている社会を予示する場であることをも前提とする。最後に、それはまた、われわれの党が連帯の場であることをも前提としているのである。
われわれは、過去から教訓を導き出しているので、解放運動の災厄である官僚化の過程に対して闘う。そして、われわれの警戒は、NPA内部でその点を訓練することから始まるだろう。
われわれは、NPAが貧困地域のすべてのところで強力になってただちに役立つ形で登場したいし、そして企業での抵抗と闘争に役立ちたいし、さらにはその闘争の発展力学が労働者の闘争を促す上でしばしば貴重であることが明らかになっている青年たちの闘いの先頭に立ちたいと考えている。
われわれは当面の改革を目指す闘いに参加するし、われわれの政治的対応は現場の現実から、すなわち、各人が日常で生活している現実から出発する。その対応は同時に、社会の要求を充足にもとづいて、われわれの望む社会の輪郭を描くことでもある。それは、資本主義やその「すべての商品」と手を切ることを前提としている。
われわれは、自らの考えを擁護し、われわれの綱領のもとに広範な民衆を結集するために選挙に参加する。われわれは、完全比例代表制を擁護し、社会の中でわれわれが保持している比重に応じた議員数を持てるようにすることを要求する。
地方選挙から国会議員選挙に至るまですべての場において、われわれは、労働者の待遇と民主的権利と環境の尊重を向上させるあらゆる政策を支持するであろう。有権者がわれわれにその責任を委託してくれた場合には、われわれはそうした政策の実現に貢献するだろう。だが、われわれは、この闘いと矛盾するいかなる選挙連合にも反対し、それに参加しないというわれわれの目的に忠実であり続けるだろう。
われわれの議員は、体制を共同管理することを拒否する。この議員たちは、反社会的政策と執拗に対決し、右翼と社会自由主義の多数派から全面的に独立して、労働者と民衆の利益をしっかりと守るだろう。
全国レベルでは、このような綱領の実施は支配階級との対決を意味するだろうし、それは、反資本主義政府にその政治手段を提供することになる新しい権力形態の出現を可能にする民衆の巨大な大衆動員を必要とするだろう。
階級支配は改良の道を通じては取り除くことはできない。闘争は階級支配を廃止するのではなくて、それを抑え、それから人民諸階級のための進歩的政策を奪い取ることを可能にする。1789年、アンシャンレジームの特権層の階級支配は改良によって廃止されたわけではなかった。それを取り除くには革命が必要であった。資本主義を打倒するには社会革命が必要となるだろう。
したがって、それは、財産関係と社会と制度の変革を必然的に意味するが、この変革は社会における生活のすべての側面に及ぶ。それに到達するためのわれわれの選択は、多数派の意志表明と大衆動員にかかっている。われわれは、1973年のチリで行われた軍事クーデターと大規模弾圧が再現されることのないようにするために、労働者の自衛を組織しようとするだろうし、この点は前もって明確に公然と宣言される。
「労働者階級の解放は労働者自身の事業である」(マルクス『共産党宣言』)は、いぜんとしてわれわれの指針であり続けている。一般に、暴力を行使するのは反動勢力である。われわれの選択は、多数の人々の選択であり、要求を正当で大衆的なものにする闘争形態の選択であり、ストライキのピケットラインを強固に堅持し、空き家を徴発し、追跡されるサンパピエを匿い、不寛容に背くことで、要求を満たすためには合法性の狭い枠組みを抜け出ることをいとわないのである。
われわれの党の目的は権力獲得それ自身ではない。われわれは今日以降いたるところで、労働者と民衆による資本主義社会の打倒とその自主管理を準備するために闘争の自主的な組織化を目指して闘う。
われわれは、NPAがこの2世紀以来体制と対決してきた人々の遺産の最良のものを、すなわち、階級闘争の最良のものを、社会党や共産党やリベタリアンや革命派の伝統の最良のものを生かすようになることを望んでいる。
それは、民主主義と反ファシズムの闘争を引き継いだ党であり、解放の希望を曇らせてしまった強権的、官僚的逸脱に反対した闘争の記憶を守る党である。それは、あらゆる差別に反対する闘争ならびにフェミニズムや反植民地主義や反人種差別主義の闘争から学び取る党である。それは、急進的な政治的エコロジーに明確な反資本主義的基調を付与すると同時に、反資本主義に対しては明確なエコロジー的基調を付与する党であり、日常生活の商品的画一化に直面する個人が求める承認と創造性への渇望に配慮する党である。
われわれが建設する反資本主義の党は、既存秩序の打倒と抑圧への抵抗を追求してきた‐‐それが成功をおさめたかどうかには関係なく‐‐人々との間の連続性の一環を成している。
この党は、搾取と抑圧から解放された社会の希望を育む。1936年6月や68年5月のように、歴史が加速し、政府がその正当性を失い、民衆の広範な層が堪忍袋の緒を切る時、その勝利チャンスを高めることができる党を建設したいとわれわれは考えている。 それは、何百万もの個々人の意志を代行するのではなくてその意志を支える党であり、体制との決裂を拡大することを可能にするイニシアチブを提案する党である。
搾取、抑圧、差別、環境破壊は、世界的現象であり、相互に複雑に入り組んだ政策の結果である。われわれの敵、資本家は、国境など気にとめない。それは、全世界の言語を話す。連中は実によく組織されていて、それと闘うためには、それだけ効果的にわれわれを組織しなければならない。われわれの党は、全世界で同じ目的のために闘っているすべての勢力と結びつくことを追求する。NPAが新しいインターナショナルの結成の展望のもとに世界の他の反資本主義的勢力や革命的勢力との政治的対話と協力を開始するのはまさにこのためである。