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90年前の1919年5月4日、北京では日本帝国主義へ山東半島を割譲しようとしていたベルサイユ講和条約締結に反対する学生・労働者による抗議行動が広がった。のちに「五四運動」と呼ばれる反帝国主義の政治・文化運動である。
アヘン戦争以来、帝国主義諸国の侵略と辛亥革命(1911年)以後の軍閥割拠によって中国の労働者農民は塗炭の苦しみに喘いできた。1917年8月、当時の北京政府はドイツに宣戦布告し、ドイツが中国に有する青島をはじめとする山東省の権益奪還を掲げた。しかし、第一次大戦後の帝国主義諸国による植民地分割会議であったベルサイユ講和会議(1919年4月)では、敗戦国ドイツの権益は、日本帝国主義が継承する、という中国民衆には到底受入れられない講話条約が議論されることになった。北京の学生25000人の名前を以って、全国へ激電が発せられた。
「青島返還はついに成功の望みなし。われら起つべき時はまさに至る。全国民一丸となって、5月7日の国恥記念会(※)を決行し、外敵に抗議し、難局にあたらん」
※5月7日の国恥記念とは、1915年5月7日に、日本の中国侵略拡大要求である「21か条の要求」を当時の中華民国総統の袁世凱が受諾した日であり、中国民衆はそれ以降この日を「国恥記念日」とした。
1919年、5月3日。北京大学、北京高等師範、中国大学、朝陽法専大学、工業専門学校などの代表1000人が北京大学で集会を開き、翌5月4日に天安門広場でデモンストレーションを行うことを決議。
5月4日早朝、北京の13の大学や専門学校から集まった代表が共闘会議を開き、「北京学生宣言」を配布し、「主権をかちとり、国賊を取り除こう」という政治スローガンを掲げることを決議。
午後には、北京の十数校の学生3000名が、警察や軍隊の阻止線を突破して天安門に結集して集会を開催。「21か条を破棄せよ」「青島を返せ」「主権と取り戻そう」「授業のボイコット」「国賊の曹汝霖、章宗祥、陸宗輿」「講和条約への署名を拒否せよ」などのスローガンを叫びながら、日本帝国主義の侵略に抗議し、帝国主義の手先となっていた北洋軍閥の北京政府に攻撃の矛先を向けた。
デモ隊は各国大使館への道を警察に寄って阻まれ、学生代表が大使館に申し入れを行った。夕方になり、デモ隊は曹汝霖邸へなだれ込み、そこに居合わせた章宗祥を殴りつけ、屋敷に火を放った。この事件で学生32人が逮捕された。
翌日には全国各地へ檄文がとんだ。5月7日の国恥記念日には、日貨(日本製品)焼き捨て大会が開かれた。高まる政府批判をかわすために、北京政府は逮捕した学生を釈放するが、学生達の運動は反日運動から反政府運動へ全国各地へ拡大する。
5月19日には北京の中等学校以上の学生25000人が授業のボイコットに突入し、「ボイコット宣言」を高らかに宣言する。天津、上海、南京、杭州、重慶、南昌、武漢、長沙、アモイ、済南、開封、太原などでも北京の学生運動を支援するボイコットが行われた。
6月1日、北京政府は、学生団体の解散を命じる。また日貨焼き討ちは外交関係を破壊し、政府の権威失墜につながるとして禁止した。翌日には政府の対応に抗議する街頭宣伝が行われた。政府は弾圧に動く。
6月3日には、何千もの学生が街頭宣伝活動を行い、178人の学生が逮捕される。翌日の6月4日にはさらに700人以上が逮捕され、北京大学法学部の講堂や理学部の一室などに設けられた仮の拘留所に拘留された。大学周辺には大砲や兵営が設置され、弾圧が厳しさを増していく。
学生達の援軍は工場から現れた。
6月5日、学生を支援するために、上海の労働者がゼネストを打つ。商店も一斉休業に入る。学生の授業ボイコット、労働者のストライキ、商店の一斉休業は、全国22省150以上の都市に拡大し、日本帝国主義と封建軍閥に巨大な脅威を及ぼす。
6月6日、運動拡大を恐れた北京政府は学生を釈放し、6月10日には曹汝霖、章宗祥、陸宗輿を罷免し、銭能訓国務総理が辞任。6月11日には北京政府総統の徐世昌も辞職した。
五四運動によって切り開かれた中国革命のダイナミズムは、労働運動、青年運動、女性運動、文化運動などさまざま分野に影響を及ぼし、日本帝国主義の更なる侵略と国民党との内戦など、さまざまな曲折を経て1949年の中華人民共和国の建国でひとつの頂点を迎える。
この五四運動に参加した学生達に、思想面、政治面、文化面で大きな影響を与えた雑誌があった。
1915年9月に創刊された『新青年 La Jeunesse』である。創刊者の名は陳独秀。のちに中国共産党初代書記長となり、コミンテルンの要請(事実上の指令)で国共合作をすすめ中国革命を指導するも、1927年4月に国民党・蒋介石による血のクーデターで徹底した弾圧を受け、その総括からコミンテルンおよび中共中央に反旗を翻し、中国トロツキストの指導者となる人である。
『新青年』は、封建的中国の支配的イデオロギーであった儒教および文化的支配装置であった文語体の使用の拒絶を掲げた。そして民主主義と科学こそが混迷する中国を救済する「外科医」であると訴えた。
曹汝霖らが罷免された翌日の6月11日、陳独秀は北京前門の繁華街で「北京市民宣言」を発表し散布した。宣言は次のように訴えた。
「政府が和平を望まず、市民の希望をまったく聞き入れないのであれば、我ら学生、商人、労働者、軍人などは、その根本的改造のために、ただ直接行動に訴えざるをえないだろう」
陳独秀はこれを理由に逮捕される。全国各地の学生団体や著名人らによる救援活動によって98日の拘留後に釈放される。
陳独秀は、中国におけるマルクス主義の父である李大らなどとの交流もあったが、『新青年』の発刊後数年は、進歩的なブルジョア民主主義者として中国に多大な影響を与えてきた。その陳独秀が、本格的にマルクス主義者を受入れていく契機となったのが、自らの思想的影響を受けた学生らによってたたかわれた五四運動であった。
後年、陳独秀とともにトロツキストとして中国革命の一翼を担い、そののちに中国共産党からの弾圧を逃れて香港、英国へと亡命し、2002年12月に亡命先の英国リーズで95歳の生涯を閉じた王凡西は次のように述べている。
「1917年10月革命は陳の思想に巨大な影響を及ぼしたが、しかし、陳が決定的にマルクス主義を受け入れ、中国は、中国人がボリシェヴィキのように経済・政治的革命を実行しない限り、けっして近代化されないだろうという結論に達したのは後年のことだった。
この変化が陳の思想にもたらされたのは、とりわけ五四運動によってだった。・・・・・・五四運動は、陳の『新青年』雑誌の直接的影響のもとで起こった。それは、『新青年』の最初の勝利であり、しかも最初の大きな試練でもあった。五四運動は急速に『新青年』の指導者達を二つの競合しあう陣営へと分断することになった。・・・・・・陳独秀と李大はより左へと行き、革命的作業へと突進した。
・・・・・・五四運動の指導者として、その鼓吹者として、陳独秀はその(五四運動:引用者)末期に政府の弾圧の主要な標的になった。釈放後、彼は北京大学を永久に辞し、以前、無差別に採用していた諸教義の批判的見直しを始めた。1920年9月、彼はマルクス主義者であることを宣言した。」
――王凡西「陳独秀――中国共産主義の創始者」(『トロツキー研究』39号)より
活動の拠点を上海に移していた陳独秀は、1920年2月に上海工読互助団を組織し、労働者の勉学の機会を提供し、労働運動との接触を強めていった。4月にはコミンテルン極東部長のヴォイチンスキーと面会し、5月にマルクス主義研究会を結成する。8月には、中国で最初の「共産党宣言」全訳が出版され(陳独秀が校正などを行う)、労働者向けの刊行物『労働界』を創刊。陳独秀の自宅で上海共産主義小組を結成。事実上の中国共産党設立となる(公式の結成大会は21年7月)。9月1日、『新青年』第八巻第一号が出版される。『新青年』はこの号から、上海共産主義者小組の事実上の機関紙として、系統的にマルクス主義の理論やロシア革命の経験を中国に広める役割を担うことになる。
その後の陳独秀の活躍については、『陳独秀』(横山宏章、朝日新聞社)、『中国トロツキスト回想録』(王凡西 著/矢吹晋 訳、柘植書房)、『初期中国共産党群像 トロツキスト鄭超麟回憶録1・2』(鄭超麟 著/長堀祐造、三好伸清、緒方康 訳、平凡社・東洋文庫)、『トロツキー研究NO.39 特集 中国革命と陳独秀』などを参照してもらいたい。
1942年、5月27日、陳独秀は四川省江津県にて病没。陳独秀とともに初期共産党で活躍し、その後、中国革命の敗北を陳独秀1人に押し付けるコミンテルンや中共中央と対立し、トロツキストに転じ、新中国建国後の1952年12月22日の中国トロツキスト一斉摘発で逮捕され1979年6月に釈放され、98年8月に上海で亡くなった鄭超麟は、陳独秀没後の5月31日に「陳独秀同志を追悼する」という一文を寄せている。
「中国近代史において、陳のような革命家は他に見あたらない。・・・・・・ただ一人、陳独秀だけが、ルソー主義からジャコバン主義、マルクス主義、レーニン=トロツキー主義へと進んだ。この雑多で急激な過程が、一個人のうちに完成し、さらにその各段階の転機において、この個人が主導的な地位にあったのは尋常なことではない。
・・・・・・陳独秀が陳独秀たるゆえんは、結局のところ、やはり中国革命の特殊性の産物であった。ルソーからロベスピエール、エベールに至るまで半世紀を隔てていること、彼らからフーリエを経てマルクスに至るまでやはり半世紀を隔てていることを知っている。さらにマルクス、エンゲルスからレーニン、トロツキーまでまた半世紀を隔てていることを知っている。しかしヨーロッパのこの非常に長い過程を、中国は半世紀で通り過ぎることができたのである。・・・・・・『陳独秀』は中国の『永続革命論』を象徴していた。
・・・・・・これこそ中国革命の特色である。第四インターナショナル中国支部がかつて中国のこのような偉大な思想家にして偉大な人物を指導者としたことは誇りとするに足ることである!」
――鄭超麟「陳独秀同志を追悼する」(『トロツキー研究』39号)より
今日、「中華民族」愛国主義イデオロギーけたたましい中国では、かつての「右翼投降主義」「漢奸」「日本帝国主義のスパイ」などというスターリニズムばりの罵倒にかわり、「愛国主義者 陳独秀」を持ち上げる傾向が強い。「新左派」とよばれる中国左派知識人のサイト「烏有之郷」(ユートピア)でも、五四運動90周年記念の論文が複数掲載されているが、ほとんどが五四運動や陳独秀は愛国主義の第一人者というものである。
華僑の多いマレーシアで躍進する社会主義政党「マレーシア社会党」で活動する中国系マレー人のブログでは、五四運動の時代と現在の中華民族意識の比較を行っている。(マレーシア社会党については「かけはし」http://www.jrcl.net/frame090427f.htmlを参照)
「今日、中国において資本主義が復活し、「中華民族」の意識がふたたび高まっている。しかし、この中華観族の意識は、90年前の五四運動の時期の民族主義とは、異なるところがある。かつての中国の民族主義は、帝国主義や封建的イデオロギーからの解放という革命思想であった。この民族革命思想は、たくみに労働者階級の自己解放の社会主義思想と結合した。これこそが五四運動の先達たちの先見の明であった。翻って今日の中国の民族主義は、中国がいかに強大になるかだけを考えており、広範な労働者農民が今後も搾取され続けなければならないのか否かについては何ら関心を示そうともしない反動的思想となっている。
・・・・・・90年前、五四運動が爆発したとき、中国そして世界はまさに巨大な転換点にあった。この転換点は20世紀の歴史全体に深く影響を及ぼした。90年前、世界はまさに帝国主義の戦争の災禍と社会主義革命の一進一退のまっただなかにあった。90年後の現在、世界はまさに資本主義の破滅と社会主義による救済的任務の決定的な時にある。」―――五四運動90周年 http://utopia.e-channel.info/read.php?1067
困難な情勢下における労働運動や度重なる弾圧を経て、復活しつつある資本主義そのものに向けた闘争のなかで、中国で、そして日本でも、この時代の『新青年』が必要となるだろう。それは、
「かつて第一線に立った労働者の間でさえ疲れ幻滅したものが少なからずいる。彼らは、少なくとも次の時期の間、傍観者としてとどまるだろう。ある綱領や組織が摩りきれてしまうと、それを自ら担った世代もまたそれとともに摩滅してしまう。運動は過去に対し責任がない青年によってふたたび生命をあたえられる。第四インターナショナルはプロレタリアートの若い世代に特別の注意をはらう。第四インターナショナルのすべての政策は青年に自己の力と未来に対する信念をふきこもうとする。ただ青年の新鮮な熱情と攻撃的精神だけが闘争における予備的成功を保障することができる、――ただこれらの成功だけが旧い世代の最良の分子を革命の道によびもとすことができるのである。かつてもそうであったし、これからもそうであるだろう。」(「過渡的綱領 資本主義の死の苦悶と第四インターナショナルの任務」より)
という綱領の上に、現代のさまざまな社会的、国際的闘争との結合の中に位置づけられるだろう。
2009年5月4日
(H)