アジア連帯講座のBLOGです
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15日に長崎県佐世保のスポーツクラブで発生した猟銃乱射事件は子どもをふくむ8人もの死傷者を出すという痛ましい事件となった。犯人は自殺してしまい、事件の真相についてはいまなお不明な点が多いが、動機として犯人の「自殺願望」が指摘されている。自身の身勝手な理由で無関係の人間の生命を奪った犯人にはおよそ同情の余地のないことは言うまでもないが、ここでは犯人が所持していた武器に、すなわち4丁もの猟銃とさらに約2700発もの銃弾に注目してみたい。
日本で「銃犯罪」というと暴力団員などによる違法に所持されたものを想像する。しかし、今回の事件で使われた銃は警察(公安委員会)に正規に申請され、許可された「合法的な」銃であることが重要だ。
同じように所持を認められている合法銃は猟銃・ライフル銃だけで日本国内に30万丁強(警察庁発表)にもおよび、空気銃やその他を含めれば約37万5000丁もの銃が国内に出回っている。さらに、今回犯人の自宅や車から押収された2700発にも及ぶ大量の弾丸も銃砲店で購入されたもので、(もっとも、火薬類取締法施行規則によって個人の保管できる銃弾の数は800発までと制限されているが)入手経路自体には何ら違法性はない。
テロ対策を叫び、治安強化を推し進めていたのはこうした銃の許認可権をもっている警察当局自身であるはずだ。先月20日、“テロを水際で防ぐ”として日本に入国する外国人の指紋採取が「義務」化され、東京の主要ターミナル駅では警察官の巡回や職務質問、さらに新宿駅では違法まがいの所持品検査までが行われている。すべては、「テロに対する警戒」なのだ、と警察当局は主張してきたではないか。だが、この“弾丸2700発”とはかつての「浅間山荘銃撃事件」で有名になった連合赤軍グループが隠匿していた弾丸を上回る量だ。すなわち彼・彼女らのいうところの「テロ」の実行に十分な数の弾丸と猟銃が警察当局の公認のもと、全く合法的に入手されていた、ということなのだ。
報道によればこの死亡した容疑者は以前から猟銃を手に近所を徘徊したり、人に銃を突きつけるなどの「奇行」が近隣住民から警察に通報されていたという。ある住民は警察に対してなぜそんな人間に銃の携帯を許しているのか、と訴えたが逆に「そんなことに答える必要はない」と恫喝された、とインタビューに答えている。
これらの事実は今回の事件の大きな原因のひとつとして警察の銃対策のサボタージュにあったことを示している。そして、我々がもう一つハッキリさせなければならないのは警察や政府が掲げる「テロ対策」なるものがいかにインチキであるか、ということなのだ。マンションにビラを投函しただけで「住居侵入」に問われた一連の市民運動、反戦運動に対する弾圧事件、あるいは我々の仲間にたいする(免許証の住所を書き換えていなかった事を口実にした)「免状不実記載」逮捕事件・・・社会運動体に対する警察当局による“微に入り細に入る”「テロ対策」「治安強化」は貫徹されていながら、一方で警察・公安委員会公認で2700発もの大量の弾丸を堂々と購入できるという事実、銃の携帯に「不適格」であることを承知していながら放置し続けていたという事実、これらはあまりに対照的であると言わなければならない。
猟銃=「合法銃」による同様の事件は今回が初めてではない。例えば、2002年に栃木県内で起きた発砲・死傷事件では20年以上隣人トラブルを抱えていた男に県公安委員会はなんと事件発生の1年前に銃の携帯許可を与えている(所轄の警察官から“隣人トラブル”の事例が報告されていたにも関わらず)。これだけの市民の犠牲がでてもなお警察庁は「合法銃」の制度改革あるいは「銃規制」には言及していない。
ふと気がついてみると、“SAT”やら“SIT”やらの警察の特殊部隊の強化、重武装化がいつの間にか進んでいる。一般の警察官による拳銃使用も以前に比べると多くなっている。「テロ対策」や「治安の悪化」が警察当局、メディアによって強調されることで私たちはそういったことが当たり前であるかのように考えてしまい勝ちだ。
だが、もともと凶器となりうる銃の規制もせず(放置して?)に果たしてどんな「テロ対策」「治安」があるのだろうか?佐世保の事件の衝撃も冷めやらぬうちに19日の朝、東京駅の交番では警察官が自分の拳銃を使って自殺した。今年に入って警察官の銃による不祥事はこれで6件である。性格は事案ごとにもちろんことなるものの警察(官)が近年極めて恣意的に拳銃を使用していないだろうか?
“銃口から治安が生まれる”式の安易な発想によって警察当局は自身の「武装」にはご執心の一方で、今回の乱射事件のように「市民の安全」に直結する問題にはそれほどの興味を持たなかったようだ。
こうした、私たち一人一人の人命を軽んじている現在の警察当局の姿勢と、「テロ対策」の名目でなし崩し的に私たち個人のプライバシーや尊厳を踏みにじっている警察の姿・・・一見無関係に見えるかも知れないが、いわゆる“人権”という概念に対する鈍感さという点では共通するものがあるような気がするのだが・・・
(H)
同じように所持を認められている合法銃は猟銃・ライフル銃だけで日本国内に30万丁強(警察庁発表)にもおよび、空気銃やその他を含めれば約37万5000丁もの銃が国内に出回っている。さらに、今回犯人の自宅や車から押収された2700発にも及ぶ大量の弾丸も銃砲店で購入されたもので、(もっとも、火薬類取締法施行規則によって個人の保管できる銃弾の数は800発までと制限されているが)入手経路自体には何ら違法性はない。
テロ対策を叫び、治安強化を推し進めていたのはこうした銃の許認可権をもっている警察当局自身であるはずだ。先月20日、“テロを水際で防ぐ”として日本に入国する外国人の指紋採取が「義務」化され、東京の主要ターミナル駅では警察官の巡回や職務質問、さらに新宿駅では違法まがいの所持品検査までが行われている。すべては、「テロに対する警戒」なのだ、と警察当局は主張してきたではないか。だが、この“弾丸2700発”とはかつての「浅間山荘銃撃事件」で有名になった連合赤軍グループが隠匿していた弾丸を上回る量だ。すなわち彼・彼女らのいうところの「テロ」の実行に十分な数の弾丸と猟銃が警察当局の公認のもと、全く合法的に入手されていた、ということなのだ。
報道によればこの死亡した容疑者は以前から猟銃を手に近所を徘徊したり、人に銃を突きつけるなどの「奇行」が近隣住民から警察に通報されていたという。ある住民は警察に対してなぜそんな人間に銃の携帯を許しているのか、と訴えたが逆に「そんなことに答える必要はない」と恫喝された、とインタビューに答えている。
これらの事実は今回の事件の大きな原因のひとつとして警察の銃対策のサボタージュにあったことを示している。そして、我々がもう一つハッキリさせなければならないのは警察や政府が掲げる「テロ対策」なるものがいかにインチキであるか、ということなのだ。マンションにビラを投函しただけで「住居侵入」に問われた一連の市民運動、反戦運動に対する弾圧事件、あるいは我々の仲間にたいする(免許証の住所を書き換えていなかった事を口実にした)「免状不実記載」逮捕事件・・・社会運動体に対する警察当局による“微に入り細に入る”「テロ対策」「治安強化」は貫徹されていながら、一方で警察・公安委員会公認で2700発もの大量の弾丸を堂々と購入できるという事実、銃の携帯に「不適格」であることを承知していながら放置し続けていたという事実、これらはあまりに対照的であると言わなければならない。
猟銃=「合法銃」による同様の事件は今回が初めてではない。例えば、2002年に栃木県内で起きた発砲・死傷事件では20年以上隣人トラブルを抱えていた男に県公安委員会はなんと事件発生の1年前に銃の携帯許可を与えている(所轄の警察官から“隣人トラブル”の事例が報告されていたにも関わらず)。これだけの市民の犠牲がでてもなお警察庁は「合法銃」の制度改革あるいは「銃規制」には言及していない。
ふと気がついてみると、“SAT”やら“SIT”やらの警察の特殊部隊の強化、重武装化がいつの間にか進んでいる。一般の警察官による拳銃使用も以前に比べると多くなっている。「テロ対策」や「治安の悪化」が警察当局、メディアによって強調されることで私たちはそういったことが当たり前であるかのように考えてしまい勝ちだ。
だが、もともと凶器となりうる銃の規制もせず(放置して?)に果たしてどんな「テロ対策」「治安」があるのだろうか?佐世保の事件の衝撃も冷めやらぬうちに19日の朝、東京駅の交番では警察官が自分の拳銃を使って自殺した。今年に入って警察官の銃による不祥事はこれで6件である。性格は事案ごとにもちろんことなるものの警察(官)が近年極めて恣意的に拳銃を使用していないだろうか?
“銃口から治安が生まれる”式の安易な発想によって警察当局は自身の「武装」にはご執心の一方で、今回の乱射事件のように「市民の安全」に直結する問題にはそれほどの興味を持たなかったようだ。
こうした、私たち一人一人の人命を軽んじている現在の警察当局の姿勢と、「テロ対策」の名目でなし崩し的に私たち個人のプライバシーや尊厳を踏みにじっている警察の姿・・・一見無関係に見えるかも知れないが、いわゆる“人権”という概念に対する鈍感さという点では共通するものがあるような気がするのだが・・・
(H)
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