アジア連帯講座のBLOGです
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当BLOGの記事『読書案内・陰謀論の罠』は、数箇所のインターネット掲示板上で好意的、あるいは批判的に紹介されました。一つの文章ですべてを語ることは不可能なので、論をさらに展開する機会を与えていただいたという点において、疑問・批判を寄せていただいた方々に感謝します。
とりわけ、当該記事に関して「四トロ二次会」と「マル共連」に寄せた小ブルアトムさんの疑問・批判は、おなじような疑問・批判を持つ人々はおそらく少なくないように思われるので、当BLOGで取り上げさせていただこうと思います。
ほんとうなら、その疑問・批判が寄せられた掲示板において議論するべきなのかもしれませんが、やはり「アジア連帯講座」というグループのBLOGで表明したことに対する疑問・批判であり、当グループで十分に議論したことではないとはいえ一定「オフィシャル」な性格をもって返答しなければならないと思うので、このような形でのお返事となることをご了承ください。
以下、「信念の相克」にならないように心がけながら、綴っていこうと思います。
とりわけ、当該記事に関して「四トロ二次会」と「マル共連」に寄せた小ブルアトムさんの疑問・批判は、おなじような疑問・批判を持つ人々はおそらく少なくないように思われるので、当BLOGで取り上げさせていただこうと思います。
ほんとうなら、その疑問・批判が寄せられた掲示板において議論するべきなのかもしれませんが、やはり「アジア連帯講座」というグループのBLOGで表明したことに対する疑問・批判であり、当グループで十分に議論したことではないとはいえ一定「オフィシャル」な性格をもって返答しなければならないと思うので、このような形でのお返事となることをご了承ください。
以下、「信念の相克」にならないように心がけながら、綴っていこうと思います。
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四トロ二次会から転載
http://6305.teacup.com/mappen/bbs?
しつこく、「イスラム主義」は「悪」?
投稿者:小ブルアトム 投稿日:2007年12月4日(火)00時12分26秒
お邪魔します。「ふじいえいご」さんの陰謀論云々についてはなんの異論もありませんが、前回のアジア連帯講座の「イスラム主義は悪」について更に展開されているようでして、こちらで反応させていただきます。
ふじいさんは前回の「イスラム主義は悪」について、マル共連での議論を踏まえられたものかどうか、更に展開されています。
即ち、陰謀論者に典型的なあり方は、「悪いのは帝国主義のみ(あるいはアメリカ帝国主義)である」といった形で、世界を単純化して理解しようとしている、と。
そして提示される世界観は「帝国主義も悪であり、イスラム主義も悪である」というものです。これがふじいさん式の「複雑な世界観」であるらしいのです。
ここで私は第4インター派の路線について云々しようというものではありませんが、あえて問います。
それでは、第4インター派が(かつては)「無条件擁護」していた「労働者国家」は、現時点の我々の人権感覚や民主主義感覚から鑑みて、「善」であったのか?
旧共産圏においても、徹底的にひどい権力もありましたし、相対的に「まし」な権力もありましたが、ふじいさんは「イスラム主義」について、ひどいイスラム主義やましなイスラム主義といった区別をつける必要を感じておられないようです。
そもそも、今日のイスラム主義の台頭は、帝国主義に対抗する勢力としてのマルクス主義勢力が没落し、力を失ったことにより、その代替的イデオロギーとしてイスラム主義が拡がったという経緯があります。
60年代70年代のアラブの「テロ活動(と帝国主義によって呼ばれるところの)」の主役はマルクス主義者のものであったことなどは、いまさら指摘するまでもないでしょう。
いま、現在の時点でどのような立場をとるかということは、第4インター派が諸情勢を鑑みて判断されていることでしょうが、その現在の立場を補強するために、このような「世界観の単純化」を行うようであれば、それは諸々の陰謀論者の類とそんなに距離は離れていないということになってしまうのではないでしょうか。
・その他の小ブルアトムさんの「四トロ二次会」「マル共連」の書き込みにおける疑問・批判は随時引用
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●瑣末な点から
おそらく誤解だと思われますが、当BLOGの該当記事を『かけはし』に掲載するに際して紙媒体ということもあり若干の加筆訂正を行いBLOG記事も更新しましたが、ほとんど語尾の修正程度の加筆修正であり、文意にはまったくと言っていいほど変更はありません。とりわけ「イスラム主義」の評価については、最後の最後に「そして、9.11のような『反米無差別テロ』が起きる世界の現実』を踏まえることなしに、平和への道はないのである」と付け加えたのみです。「マル共連での議論を踏まえられたものかどうか、更に展開されています」という経過はありません。
●「イスラム主義」の用語について
当該記事では「中東における宗教的原理主義潮流」を「イスラム主義」としましたが、筆者自身厳密に統一して使用しているわけではなく、文脈や取り上げる事件などによって「イスラム主義」もしくは「イスラム原理主義」「宗教的原理主義」などと使い分けています。他にこれに該当する用語として「イスラム政治運動」「イスラム復興主義運動」または「イスラム復古主義」などがあります。
これらは世間一般や左派においても定まった用語ではなく、中東・アラブの左翼や学者などによってもまちまちで、やはり文脈などによっても使い分けられているようです。例えばレバノン出身の政治学者で『野蛮(ママ)の衝突』(作品社)などの著作のあるジルベール・アシュカルは主に「イスラム原理主義-Islamic fundamentalism」を用い、パキスタン労働党は「宗教的原理主義-religious fundamentalism」を多用しているようです(いずれも厳密に統一はされていないようですが)。
この「原理主義潮流」は、「コーランとシャリーア(イスラム法)の極端で恣意的なドグマ化による復古主義政治運動」とでも規定すべき存在であり、それを表わす「イスラム主義」という用語は、いかなる意味においてもイスラム教徒とイコールで結ぶものではありません。一般的にも使用される際には、イスラム教徒一般とは区別する形で、基本的には使われているように思えます。しかし、「政治用語」としては区別しているつもりでも、「イスラム」の文字によって読む人々のなかにはに「イスラム教徒一般が前近代的」と解釈する者も生み出される危険はたしかに否めません。
しかし、「宗教的原理主義-religious fundamentalism」と統一するには、キリスト教派生のfundamentalismやヒンズー教派生のfundamentalismもあり、それぞれの教義と運動の異なる特徴もあるので悩ましいところです(家族主義・同性愛者憎悪などの共通点もありますが)。もっとも、いわゆる「キリスト教原理主義」の用語をもって「キリスト教徒はみんなブッシュを支持している」と考える人はまずいないわけで、「イスラム主義」もしくは「イスラム原理主義」もそのように使用していました。
とは言え、小ブルアトムさんの指摘を受けて、日本語の文脈では「イスラム教徒一般」への誤解を与える可能性のある「イスラム主義」もしくは「イスラム原理主義」の用語は極力控え、今後はなるべく「宗教的原理主義」を使用するべきか、とも考えています。
(しかし、さしあたって本稿では、煩雑さを避けるために「イスラム主義」表記も含めて綴ります)
>ふじいさんが具体的にアルカイーダの類のいわゆるトランスジハーディストを批判しようとしているのであれば、正確にそのように記述されるべきであり、トランスジハーディストに対する批判をするつもりで「イスラム主義」という言葉を使っているのであれば、それは無理解の為せる技でありましょう。
「トランスジハーディスト」(国境を越える聖戦主義者)とは、ほとんど東京新聞記者でジャーナリストの田原牧あたりしか使用していない用語ではないでしょうか。英語の”Trans-national jihadist”にしてもそれほど一般的な用語とは思えず、また当該記事においてはアル・カイダ型の”国際的アメーバ型組織の武装グループ”だけではなく、タリバンやハマス、イランのイスラム主義権力やヒズボラなども念頭にあったので、「イスラム主義」と表記しました。
余計なことですが、田原は東京新聞 2006年9月6日版で、9.11陰謀論者に好意的な記事を書いた記者ですね。また、ネオコンの総帥と言われるアーヴィン・クリストルが、かつて「トロツキスト系組織」に属していたことから「ネオコンのルーツはトロツキズム」論を流布する「トンデモ」の素質十分の人物だと、個人的には思っています。
これも余計なことですが、アーヴィン・クリストルが属していたのは、厳密には独ソ不可侵条約の締結に憤慨して、アメリカ社会主義労働者党から訣別したグループで、その思想や政治傾向はむしろ、ソ連邦を帝国主義と同等の敵とした「反スターリン主義派」に近いと言えます。もちろん、それをもって「ネオコンと反スタ派は同根」などと主張したいわけではなく、田原らの論法に倣えばそういう暴論も成立する、と言うことです。
●「イスラム主義」の評価について
当該記事で「イスラム主義は悪」としたのは、9.11陰謀論者の「アメリカ一元的悪」論の思考回路をあえて借用したのであり、また、この夏に亡命イラン人コミュニストと対話する機会があり、ラル・モスク(赤いモスク)神学生とパキスタン国軍の衝突についてイラン人コミュニストが「あんなものは悪党と悪党の喧嘩だ!やつら(原理主義者)には俺たちもひどい目に遭ったものだ」と吐き捨てるように語っていたことが強く印象に残っていたので、そのような表現になった次第です。
>そもそも、今日のイスラム主義の台頭は、帝国主義に対抗する勢力としてのマルクス主義勢力が没落し、力を失ったことにより、その代替的イデオロギーとしてイスラム主義が拡がったという経緯があります。
そのこと自体はその通りですが、より正確には1930年代にはエジプトの「ムスリム同胞団」などの「イスラム復古主義潮流」が発生しています。かれらのイデオロギーは「シャリーア(イスラム法)に基づくイスラム国家建設」をめざし、強烈な反共・反社会主義を掲げていました。それは一貫して「民族解放運動を社会主義派が獲得するのか、原理主義派が獲得するのか」という対抗関係にあったように思われます。
分かりやすい例が、パレスチナのPLO・ファタハです。結成当初「ユダヤ人を海に突き落とせ」という排外主義的で反ユダヤ主義を掲げていたPLOは、世俗的アラブ民族主義のファタハがイニシアチヴを握ることによって、「パレスチナ解放とは多民族・多宗教の共存する世俗的民主パレスチナの建設である」とする画期的で進歩的な「パレスチナ憲章」を打ち出しました。これは、PFLPなどの社会主義派の影響に負うところが大きいでしょう。しかし、ソ連邦崩壊による世界的な社会主義派の後退とそれに伴うPFLPやDFLPなどの社会主義派の弱体化によってハマスやイスラム聖戦がパレスチナ社会においても伸張し、現在では「世俗派」であるはずのファタハの軍事部門が「殉教者団」を名乗ってハマスらと自爆を競い合うようになっています。
このような民族解放運動内部におけるイニシアティヴの転換は、国際的な民衆の連帯の枠組みによってのみ可能となるでしょう。社会主義派がイニシアティヴを持つ民族解放運動でも両者をイコールで結べないように、原理主義派によるものであっても「イコール」ではありません。民族運動内部には世俗的民族解放派、社会主義派、女性解放運動などの様々な要素が存在するのであり、「アメリカ帝国への戦闘性」を理由に左派や労働運動・女性解放運動への物理的敵対を「反米」と同等の路線とする原理主義者への批判を控える態度は「民族自決権の尊重」とはまったく別のもので、民族解放運動の多様性を切り捨てることになるものと考えます。
>そもそもなんらかの民衆運動が勃興するためには、その階級的因果関係というものがあります。階級的因果関係なくして登場したイデオロギー集団は、いくら突出した行動をとろうと、一部のカルト集団以上の広がりをもちません(略)『イスラム主義』という形の政治運動が登場した階級的構造・経緯を取捨して、『悪』で説明しようという態度は、『オリエンタリズム』でなければ、『マルクス原理主義の宗教的立場』であるかのどちらかなのではないでしょうか
もちろん、あらゆる政治勢力やイデオロギー集団には「階級的因果関係」があり、その分析は重要なことですが、その「階級的因果関係」を解き明かさないことには、その「イデオロギー集団」を批判してはならない、という道理はありません。日本の右翼暴力団やファシストを批判するあらゆる文章には、まずもって「階級的因果関係」を解明しなければかれらを批判できないのでしょうか。
その「解明」は別稿に譲りますが、「階級的因果関係」とともに重要なのは、「どのような実践を行うイデオロギー集団なのか」という点ではないでしょうか。私たちは、「アメリカ帝国と闘っている」からと言って、原理主義者のその女性差別・同性愛憎悪・反ユダヤ主義・「西欧文明破壊思想」に基づく民間人を標的にしたテロを看過するわけにはいかないと考えます。それは、タリバンやイラン・イスラム権威主義体制の支配下でその抑圧と闘う女性たちや、同性愛者というだけで石打ちによって処刑・虐殺される危険と隣り合わせの同性愛者たちへの敵対です。
また、「イスラム主義者」の共通するイデオロギーである、反シオニズムではなく「ユダヤ人抹殺」を掲げた反ユダヤ主義思想を看過することも、イスラエル内部でシオニズムに反対する左派や平和運動、イスラエル軍で広がりを見せる懲役・軍務拒否する人々への敵対となると考えます。
そしてなにより、「コーランとシャリーア(イスラム法)の極端で恣意的なドグマ化による復古主義政治運動」である原理主義者は、元々相対的に他宗教やユダヤ人に寛容だったイスラム教徒一般に敵対する存在です。原理主義者は、「反西欧」を掲げながら、「キリスト教世界」のロシア産の偽書「シオン長老の議定書」を根拠に「世界支配を目論むユダヤ人」という言説を流布していますが、そんな思想がイスラム教のどこにあるというのでしょうか?
「外国のしたり顔」が、「原理主義であっても民衆の運動には違いないから批判するべきでない」などと述べたときに、違和感を抱くアラブ・中東の民衆のほうが多いのではないでしょうか。
>60年代70年代のアラブの「テロ活動(と帝国主義によって呼ばれるところの)」の主役はマルクス主義者のものであったことなどは、いまさら指摘するまでもないでしょう。
JRCL第四インターナショナル日本支部は、70年代のPFLPなどの「マルクス主義者」などのものであっても「ハイジャック戦術」などのテロリズムを「大衆運動を信用しない代行主義」と批判してきた経緯があります。また、イスラム主義者の9.11型の民間人大量殺人をあらかじめ企図したテロや、「外国人」であれば非戦闘員であっても誘拐して斬首しその様子を全世界に発信するなどの残虐性は、かつての「マルクス主義者のテロ」とは比較することもできません。女性・ユダヤ人などに関する考え方も、アラブのマルクス主義者とイスラム主義者とでは、真逆のものと言えるでしょう。
●ヒズボラについて
>ところで、このアジア連帯講座の観点だと、昨年のイスラエルのレバノン侵略戦争などは「ファシストが帝国主義者の侵略を撃退した」というような事になるのでしょうか?
これはレバノンのイスラム主義組織・ヒズボラの評価についてたずねられているものと思われますが、ヒズボラはその強烈な反ユダヤ主義イデオロギー(前掲書『陰謀論の罠』に「9.11米政府自作自演説」の情報ルーツの一つがヒズボラの放送局であったことが示されています)の「宗派」的性格とともに、よく指摘されるように「住民自治組織」あるいは「反イスラエル住民レジスタンス組織」という性格をもっているように思われます。毎日新聞2006年8月9日版には、ヒズボラに訓練を受け、日常は労働者として生活しながら戦闘時にはゲリラとして戦い、戦闘が終われば仕事に戻っていくタクシー運転手のエピソードを掲載しています。
2006年のイスラエルによるレバノン侵攻を撃退したのは、第一にはこのようなレバノン民衆の献身的な闘いの勝利であり、ヒズボラがその主導的役割を果たしたからと言って皮相的な評価を下そうというものではありません。
第四インターナショナルは、2007年2月の決議において、以下のように述べています。
+++++++++++++++++
中東についての決議
http://www.jrcl.net/web/frame070326f.html
>ヒズボラは、彼らが原理主義的イスラム教組織であるという事実にもかかわらず、イスラム原理主義のテロリスト潮流と同レベルで扱うことはできない。ブッシュ政権とイスラエルが、ヒズボラをアルカイダと連携しているかのようにするやり方は、断固として非難されなければならない。
ヒズボラは、シーア派社会の主要な武装部隊となった大衆政党であり、イスラエルの度重なる攻撃への抵抗の中でレバノン住民の貧しい階層の多数派を構成している。この意味でヒズボラが行う武装抵抗は正当な闘争であり、この組織は「イラク抵抗勢力」の諸分派と同一レベルで捉えることはできない。
したがって、レバノン左翼がイスラエルと帝国主義勢力に対する抵抗においてヒズボラと同盟するのは正当なことである。国際反帝国主義左翼は、レバノンの抵抗運動に対して、その指導部の社会的・政治的性格とは独立に、またそれがヒズボラによって指導されているにもかかわらず――その原理主義的・コミュナリスト的性格と、社会的・政治的問題に対するその態度を批判しつつ――政治的支持を与える義務がある。
+++++++++++++++++
またヒズボラは、2004年にレバノンで開催された「反戦・反グローバリゼーション国際戦略会議」に参加し、翌年の世界社会フォーラムへの参加を検討するなど(諸々の事情で結局不参加)、タリバンなどとは違って「グローバルな社会運動」との連帯を模索するという志向をももっています。それだからこそ、私たちはヒズボラの「反ユダヤ主義イデオロギー」の側面は、厳しく批判しなければならない、と考えるのです。どこかの左翼党派のように「連帯対象」に無批判に迎合するのが、国際連帯-インターナショナリズムというものではありません。
● 「労働者国家無条件擁護」のスローガンについて
>第4インター派が(かつては)「無条件擁護」していた「労働者国家」は、現時点の我々の人権感覚や民主主義感覚から鑑みて、「善」であったのか?
旧共産圏においても、徹底的にひどい権力もありましたし、相対的に「まし」な権力もありましたが、ふじいさんは「イスラム主義」について、ひどいイスラム主義やましなイスラム主義といった区別をつける必要を感じておられないようです。
>「無条件擁護」とは、もちろんソ連が男性同性愛を刑法で禁止していたことも含めて「無条件擁護」でありましょうが、イスラム主義についてはこの同様の要素で以て「善」だの「悪」だのという判別をなされる一方、「労働者国家」についてはこれを「善」とか「悪」とかで判別するべきではないというのは、アメリカ帝国主義と同様のダブルスタンダードというものではないでしょうか。
この種の批判には使い古された感のある反論ですが、「労働者国家無条件擁護」とは「帝国主義打倒」「スターリニスト官僚打倒」とセットのスローガンであり、スターリン(主義的官僚)体制を丸ごと擁護するという意味でありません。トロツキストが帝国主義の経済的・軍事的な包囲・攻撃から擁護したのは「依然としてブルジョアジーによる生産手段の所有を廃した労働者国家である」という1917年のロシア革命の財産であり、非民主的・秘密警察的・官僚的なソ連邦のあり方はスターリン(主義官僚)による「反革命」の結果として、トロツキストは一貫して「官僚を打倒する政治革命」を主張してきました。同性愛者政策についても、その解放を唱えた革命政府の政策を「社会主義的生産の妨げになる」とひっくり返し、再び同性愛者を反動的に抑圧したのがスターリンでした。
この「スターリニスト官僚打倒」のスローガンより、「労働者国家無条件擁護」のスローガンが、多くの人々に誤解を伴ったインパクトを与えたのは、一つは日本においては革マル派・中核派の「反スターリン主義派」との対抗関係によって、他国の第四インターナショナル支部よりも”無条件”を強調したことと、ソ連邦・東欧諸国の過酷な秘密警察体制をついに突破出来ず、「歪められた労働者国家」内部に政治革命をめざす革命的主体の建設に成功しなかった、という歴史的経過によるものが大きいでしょう。
しかし、第四インターナショナル(とりわけ統一書記局潮流)は、一貫して1953年の東ドイツ暴動、1956年のハンガリー動乱、1968年のプラハの春、80年代のポーランド「連帯」の闘い、1989年の天安門反乱、そしてついにはソ連・東欧の官僚体制を打倒した民主主義を求める民衆の闘いを支持し、社会主義に向かう政治革命に転化しようとする挑戦を継続したことも、一つの『歴史的経過』であり事実なのです。
また、繰り返しになりますが、「労働者国家無条件擁護」とは、「帝国主義の経済的・軍事的な包囲・攻撃からのロシア革命の財産の無条件擁護」です。現在の復古主義的イスラム主義者に、何か「擁護」すべき進歩的な要素が一体どこにあるというのでしょうか。
・「労働者国家無条件擁護」と現在の北朝鮮体制の関係については、論点が広がりすぎてしまうので、別稿に譲ります。さしあたっては、下記リンクをご参照ください。
●北朝鮮と「堕落した労働者国家」論、社会主義革命運動の再生めぐって(かけはし2002.9.2号)
http://www.jrcl.net/web/frame0831b.html
「"イスラム原理主義"批判はイスラム教徒一般への敵対であり、アメリカを利する」というような思考もまた「反米一元主義」の一つの表現です。または、「イスラム教徒一般」をアリバイに、原理主義者を擁護する言説に陥っている場合もあるでしょう。 また、「西欧産の"人権"という概念を第三世界に押し付けるのは一つのオリエンタリズムだ」とするような議論がありますが、私たちはその議論に組することは出来ません。その「第三世界」にも、封建的・反動的価値観と抑圧に反対して"人権"を求めて闘う人々が存在するのですから。
以上です。長文失礼しました。(F)
【追記】
「アフガン復興第一作」と銘打たれて製作された映画『アフガン零年』(原題-Osama)では、タリバン支配下のアフガニスタンで徹底的に抑圧される女性たちを描いています。この映画は、タリバンに仕事を奪われた女性たちが青いベールに身を包みながら「私たちに仕事をください」と訴えるデモ行進をタリバンが放水で蹴散らし、弾圧する場面で始まります。
元々、監督のセディク・バルマクは、アフガンの故事に倣って「少女が虹をくぐって希望を見つける」というラストにする予定でしたが、「今のアフガンにそんな虹=希望なんてない」とラストの場面を差し替えたといういわくつきの映画です。
しかし、この映画をよく観ると、ほんの一瞬だけ「虹」が架かっています。それは女性たちのデモを蹴散らす放水が作り出した「虹」です。その意図は「タリバンの放水の虹に希望なんてない」という暗示と「それでも、この女性たちの行動に希望がある」とするダブル・ミーニングではないか、と勝手に読み取りました。
タリバン支配時代から現在でも、最低限の人権すら認めないイスラム主義の反動的・封建的抑圧と帝国主義の軍事占領の狭間で闘っている女性たちがいます。彼女たちの闘いに「虹」を架けるのは、彼女たちの存在を忘れず、孤立させず、そしてつながりを作り出そうとする国境を越えた民衆の連帯なのではないでしょうか。
四トロ二次会から転載
http://6305.teacup.com/mappen/bbs?
しつこく、「イスラム主義」は「悪」?
投稿者:小ブルアトム 投稿日:2007年12月4日(火)00時12分26秒
お邪魔します。「ふじいえいご」さんの陰謀論云々についてはなんの異論もありませんが、前回のアジア連帯講座の「イスラム主義は悪」について更に展開されているようでして、こちらで反応させていただきます。
ふじいさんは前回の「イスラム主義は悪」について、マル共連での議論を踏まえられたものかどうか、更に展開されています。
即ち、陰謀論者に典型的なあり方は、「悪いのは帝国主義のみ(あるいはアメリカ帝国主義)である」といった形で、世界を単純化して理解しようとしている、と。
そして提示される世界観は「帝国主義も悪であり、イスラム主義も悪である」というものです。これがふじいさん式の「複雑な世界観」であるらしいのです。
ここで私は第4インター派の路線について云々しようというものではありませんが、あえて問います。
それでは、第4インター派が(かつては)「無条件擁護」していた「労働者国家」は、現時点の我々の人権感覚や民主主義感覚から鑑みて、「善」であったのか?
旧共産圏においても、徹底的にひどい権力もありましたし、相対的に「まし」な権力もありましたが、ふじいさんは「イスラム主義」について、ひどいイスラム主義やましなイスラム主義といった区別をつける必要を感じておられないようです。
そもそも、今日のイスラム主義の台頭は、帝国主義に対抗する勢力としてのマルクス主義勢力が没落し、力を失ったことにより、その代替的イデオロギーとしてイスラム主義が拡がったという経緯があります。
60年代70年代のアラブの「テロ活動(と帝国主義によって呼ばれるところの)」の主役はマルクス主義者のものであったことなどは、いまさら指摘するまでもないでしょう。
いま、現在の時点でどのような立場をとるかということは、第4インター派が諸情勢を鑑みて判断されていることでしょうが、その現在の立場を補強するために、このような「世界観の単純化」を行うようであれば、それは諸々の陰謀論者の類とそんなに距離は離れていないということになってしまうのではないでしょうか。
・その他の小ブルアトムさんの「四トロ二次会」「マル共連」の書き込みにおける疑問・批判は随時引用
++++++++++++++++
●瑣末な点から
おそらく誤解だと思われますが、当BLOGの該当記事を『かけはし』に掲載するに際して紙媒体ということもあり若干の加筆訂正を行いBLOG記事も更新しましたが、ほとんど語尾の修正程度の加筆修正であり、文意にはまったくと言っていいほど変更はありません。とりわけ「イスラム主義」の評価については、最後の最後に「そして、9.11のような『反米無差別テロ』が起きる世界の現実』を踏まえることなしに、平和への道はないのである」と付け加えたのみです。「マル共連での議論を踏まえられたものかどうか、更に展開されています」という経過はありません。
●「イスラム主義」の用語について
当該記事では「中東における宗教的原理主義潮流」を「イスラム主義」としましたが、筆者自身厳密に統一して使用しているわけではなく、文脈や取り上げる事件などによって「イスラム主義」もしくは「イスラム原理主義」「宗教的原理主義」などと使い分けています。他にこれに該当する用語として「イスラム政治運動」「イスラム復興主義運動」または「イスラム復古主義」などがあります。
これらは世間一般や左派においても定まった用語ではなく、中東・アラブの左翼や学者などによってもまちまちで、やはり文脈などによっても使い分けられているようです。例えばレバノン出身の政治学者で『野蛮(ママ)の衝突』(作品社)などの著作のあるジルベール・アシュカルは主に「イスラム原理主義-Islamic fundamentalism」を用い、パキスタン労働党は「宗教的原理主義-religious fundamentalism」を多用しているようです(いずれも厳密に統一はされていないようですが)。
この「原理主義潮流」は、「コーランとシャリーア(イスラム法)の極端で恣意的なドグマ化による復古主義政治運動」とでも規定すべき存在であり、それを表わす「イスラム主義」という用語は、いかなる意味においてもイスラム教徒とイコールで結ぶものではありません。一般的にも使用される際には、イスラム教徒一般とは区別する形で、基本的には使われているように思えます。しかし、「政治用語」としては区別しているつもりでも、「イスラム」の文字によって読む人々のなかにはに「イスラム教徒一般が前近代的」と解釈する者も生み出される危険はたしかに否めません。
しかし、「宗教的原理主義-religious fundamentalism」と統一するには、キリスト教派生のfundamentalismやヒンズー教派生のfundamentalismもあり、それぞれの教義と運動の異なる特徴もあるので悩ましいところです(家族主義・同性愛者憎悪などの共通点もありますが)。もっとも、いわゆる「キリスト教原理主義」の用語をもって「キリスト教徒はみんなブッシュを支持している」と考える人はまずいないわけで、「イスラム主義」もしくは「イスラム原理主義」もそのように使用していました。
とは言え、小ブルアトムさんの指摘を受けて、日本語の文脈では「イスラム教徒一般」への誤解を与える可能性のある「イスラム主義」もしくは「イスラム原理主義」の用語は極力控え、今後はなるべく「宗教的原理主義」を使用するべきか、とも考えています。
(しかし、さしあたって本稿では、煩雑さを避けるために「イスラム主義」表記も含めて綴ります)
>ふじいさんが具体的にアルカイーダの類のいわゆるトランスジハーディストを批判しようとしているのであれば、正確にそのように記述されるべきであり、トランスジハーディストに対する批判をするつもりで「イスラム主義」という言葉を使っているのであれば、それは無理解の為せる技でありましょう。
「トランスジハーディスト」(国境を越える聖戦主義者)とは、ほとんど東京新聞記者でジャーナリストの田原牧あたりしか使用していない用語ではないでしょうか。英語の”Trans-national jihadist”にしてもそれほど一般的な用語とは思えず、また当該記事においてはアル・カイダ型の”国際的アメーバ型組織の武装グループ”だけではなく、タリバンやハマス、イランのイスラム主義権力やヒズボラなども念頭にあったので、「イスラム主義」と表記しました。
余計なことですが、田原は東京新聞 2006年9月6日版で、9.11陰謀論者に好意的な記事を書いた記者ですね。また、ネオコンの総帥と言われるアーヴィン・クリストルが、かつて「トロツキスト系組織」に属していたことから「ネオコンのルーツはトロツキズム」論を流布する「トンデモ」の素質十分の人物だと、個人的には思っています。
これも余計なことですが、アーヴィン・クリストルが属していたのは、厳密には独ソ不可侵条約の締結に憤慨して、アメリカ社会主義労働者党から訣別したグループで、その思想や政治傾向はむしろ、ソ連邦を帝国主義と同等の敵とした「反スターリン主義派」に近いと言えます。もちろん、それをもって「ネオコンと反スタ派は同根」などと主張したいわけではなく、田原らの論法に倣えばそういう暴論も成立する、と言うことです。
●「イスラム主義」の評価について
当該記事で「イスラム主義は悪」としたのは、9.11陰謀論者の「アメリカ一元的悪」論の思考回路をあえて借用したのであり、また、この夏に亡命イラン人コミュニストと対話する機会があり、ラル・モスク(赤いモスク)神学生とパキスタン国軍の衝突についてイラン人コミュニストが「あんなものは悪党と悪党の喧嘩だ!やつら(原理主義者)には俺たちもひどい目に遭ったものだ」と吐き捨てるように語っていたことが強く印象に残っていたので、そのような表現になった次第です。
>そもそも、今日のイスラム主義の台頭は、帝国主義に対抗する勢力としてのマルクス主義勢力が没落し、力を失ったことにより、その代替的イデオロギーとしてイスラム主義が拡がったという経緯があります。
そのこと自体はその通りですが、より正確には1930年代にはエジプトの「ムスリム同胞団」などの「イスラム復古主義潮流」が発生しています。かれらのイデオロギーは「シャリーア(イスラム法)に基づくイスラム国家建設」をめざし、強烈な反共・反社会主義を掲げていました。それは一貫して「民族解放運動を社会主義派が獲得するのか、原理主義派が獲得するのか」という対抗関係にあったように思われます。
分かりやすい例が、パレスチナのPLO・ファタハです。結成当初「ユダヤ人を海に突き落とせ」という排外主義的で反ユダヤ主義を掲げていたPLOは、世俗的アラブ民族主義のファタハがイニシアチヴを握ることによって、「パレスチナ解放とは多民族・多宗教の共存する世俗的民主パレスチナの建設である」とする画期的で進歩的な「パレスチナ憲章」を打ち出しました。これは、PFLPなどの社会主義派の影響に負うところが大きいでしょう。しかし、ソ連邦崩壊による世界的な社会主義派の後退とそれに伴うPFLPやDFLPなどの社会主義派の弱体化によってハマスやイスラム聖戦がパレスチナ社会においても伸張し、現在では「世俗派」であるはずのファタハの軍事部門が「殉教者団」を名乗ってハマスらと自爆を競い合うようになっています。
このような民族解放運動内部におけるイニシアティヴの転換は、国際的な民衆の連帯の枠組みによってのみ可能となるでしょう。社会主義派がイニシアティヴを持つ民族解放運動でも両者をイコールで結べないように、原理主義派によるものであっても「イコール」ではありません。民族運動内部には世俗的民族解放派、社会主義派、女性解放運動などの様々な要素が存在するのであり、「アメリカ帝国への戦闘性」を理由に左派や労働運動・女性解放運動への物理的敵対を「反米」と同等の路線とする原理主義者への批判を控える態度は「民族自決権の尊重」とはまったく別のもので、民族解放運動の多様性を切り捨てることになるものと考えます。
>そもそもなんらかの民衆運動が勃興するためには、その階級的因果関係というものがあります。階級的因果関係なくして登場したイデオロギー集団は、いくら突出した行動をとろうと、一部のカルト集団以上の広がりをもちません(略)『イスラム主義』という形の政治運動が登場した階級的構造・経緯を取捨して、『悪』で説明しようという態度は、『オリエンタリズム』でなければ、『マルクス原理主義の宗教的立場』であるかのどちらかなのではないでしょうか
もちろん、あらゆる政治勢力やイデオロギー集団には「階級的因果関係」があり、その分析は重要なことですが、その「階級的因果関係」を解き明かさないことには、その「イデオロギー集団」を批判してはならない、という道理はありません。日本の右翼暴力団やファシストを批判するあらゆる文章には、まずもって「階級的因果関係」を解明しなければかれらを批判できないのでしょうか。
その「解明」は別稿に譲りますが、「階級的因果関係」とともに重要なのは、「どのような実践を行うイデオロギー集団なのか」という点ではないでしょうか。私たちは、「アメリカ帝国と闘っている」からと言って、原理主義者のその女性差別・同性愛憎悪・反ユダヤ主義・「西欧文明破壊思想」に基づく民間人を標的にしたテロを看過するわけにはいかないと考えます。それは、タリバンやイラン・イスラム権威主義体制の支配下でその抑圧と闘う女性たちや、同性愛者というだけで石打ちによって処刑・虐殺される危険と隣り合わせの同性愛者たちへの敵対です。
また、「イスラム主義者」の共通するイデオロギーである、反シオニズムではなく「ユダヤ人抹殺」を掲げた反ユダヤ主義思想を看過することも、イスラエル内部でシオニズムに反対する左派や平和運動、イスラエル軍で広がりを見せる懲役・軍務拒否する人々への敵対となると考えます。
そしてなにより、「コーランとシャリーア(イスラム法)の極端で恣意的なドグマ化による復古主義政治運動」である原理主義者は、元々相対的に他宗教やユダヤ人に寛容だったイスラム教徒一般に敵対する存在です。原理主義者は、「反西欧」を掲げながら、「キリスト教世界」のロシア産の偽書「シオン長老の議定書」を根拠に「世界支配を目論むユダヤ人」という言説を流布していますが、そんな思想がイスラム教のどこにあるというのでしょうか?
「外国のしたり顔」が、「原理主義であっても民衆の運動には違いないから批判するべきでない」などと述べたときに、違和感を抱くアラブ・中東の民衆のほうが多いのではないでしょうか。
>60年代70年代のアラブの「テロ活動(と帝国主義によって呼ばれるところの)」の主役はマルクス主義者のものであったことなどは、いまさら指摘するまでもないでしょう。
JRCL第四インターナショナル日本支部は、70年代のPFLPなどの「マルクス主義者」などのものであっても「ハイジャック戦術」などのテロリズムを「大衆運動を信用しない代行主義」と批判してきた経緯があります。また、イスラム主義者の9.11型の民間人大量殺人をあらかじめ企図したテロや、「外国人」であれば非戦闘員であっても誘拐して斬首しその様子を全世界に発信するなどの残虐性は、かつての「マルクス主義者のテロ」とは比較することもできません。女性・ユダヤ人などに関する考え方も、アラブのマルクス主義者とイスラム主義者とでは、真逆のものと言えるでしょう。
●ヒズボラについて
>ところで、このアジア連帯講座の観点だと、昨年のイスラエルのレバノン侵略戦争などは「ファシストが帝国主義者の侵略を撃退した」というような事になるのでしょうか?
これはレバノンのイスラム主義組織・ヒズボラの評価についてたずねられているものと思われますが、ヒズボラはその強烈な反ユダヤ主義イデオロギー(前掲書『陰謀論の罠』に「9.11米政府自作自演説」の情報ルーツの一つがヒズボラの放送局であったことが示されています)の「宗派」的性格とともに、よく指摘されるように「住民自治組織」あるいは「反イスラエル住民レジスタンス組織」という性格をもっているように思われます。毎日新聞2006年8月9日版には、ヒズボラに訓練を受け、日常は労働者として生活しながら戦闘時にはゲリラとして戦い、戦闘が終われば仕事に戻っていくタクシー運転手のエピソードを掲載しています。
2006年のイスラエルによるレバノン侵攻を撃退したのは、第一にはこのようなレバノン民衆の献身的な闘いの勝利であり、ヒズボラがその主導的役割を果たしたからと言って皮相的な評価を下そうというものではありません。
第四インターナショナルは、2007年2月の決議において、以下のように述べています。
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中東についての決議
http://www.jrcl.net/web/frame070326f.html
>ヒズボラは、彼らが原理主義的イスラム教組織であるという事実にもかかわらず、イスラム原理主義のテロリスト潮流と同レベルで扱うことはできない。ブッシュ政権とイスラエルが、ヒズボラをアルカイダと連携しているかのようにするやり方は、断固として非難されなければならない。
ヒズボラは、シーア派社会の主要な武装部隊となった大衆政党であり、イスラエルの度重なる攻撃への抵抗の中でレバノン住民の貧しい階層の多数派を構成している。この意味でヒズボラが行う武装抵抗は正当な闘争であり、この組織は「イラク抵抗勢力」の諸分派と同一レベルで捉えることはできない。
したがって、レバノン左翼がイスラエルと帝国主義勢力に対する抵抗においてヒズボラと同盟するのは正当なことである。国際反帝国主義左翼は、レバノンの抵抗運動に対して、その指導部の社会的・政治的性格とは独立に、またそれがヒズボラによって指導されているにもかかわらず――その原理主義的・コミュナリスト的性格と、社会的・政治的問題に対するその態度を批判しつつ――政治的支持を与える義務がある。
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またヒズボラは、2004年にレバノンで開催された「反戦・反グローバリゼーション国際戦略会議」に参加し、翌年の世界社会フォーラムへの参加を検討するなど(諸々の事情で結局不参加)、タリバンなどとは違って「グローバルな社会運動」との連帯を模索するという志向をももっています。それだからこそ、私たちはヒズボラの「反ユダヤ主義イデオロギー」の側面は、厳しく批判しなければならない、と考えるのです。どこかの左翼党派のように「連帯対象」に無批判に迎合するのが、国際連帯-インターナショナリズムというものではありません。
● 「労働者国家無条件擁護」のスローガンについて
>第4インター派が(かつては)「無条件擁護」していた「労働者国家」は、現時点の我々の人権感覚や民主主義感覚から鑑みて、「善」であったのか?
旧共産圏においても、徹底的にひどい権力もありましたし、相対的に「まし」な権力もありましたが、ふじいさんは「イスラム主義」について、ひどいイスラム主義やましなイスラム主義といった区別をつける必要を感じておられないようです。
>「無条件擁護」とは、もちろんソ連が男性同性愛を刑法で禁止していたことも含めて「無条件擁護」でありましょうが、イスラム主義についてはこの同様の要素で以て「善」だの「悪」だのという判別をなされる一方、「労働者国家」についてはこれを「善」とか「悪」とかで判別するべきではないというのは、アメリカ帝国主義と同様のダブルスタンダードというものではないでしょうか。
この種の批判には使い古された感のある反論ですが、「労働者国家無条件擁護」とは「帝国主義打倒」「スターリニスト官僚打倒」とセットのスローガンであり、スターリン(主義的官僚)体制を丸ごと擁護するという意味でありません。トロツキストが帝国主義の経済的・軍事的な包囲・攻撃から擁護したのは「依然としてブルジョアジーによる生産手段の所有を廃した労働者国家である」という1917年のロシア革命の財産であり、非民主的・秘密警察的・官僚的なソ連邦のあり方はスターリン(主義官僚)による「反革命」の結果として、トロツキストは一貫して「官僚を打倒する政治革命」を主張してきました。同性愛者政策についても、その解放を唱えた革命政府の政策を「社会主義的生産の妨げになる」とひっくり返し、再び同性愛者を反動的に抑圧したのがスターリンでした。
この「スターリニスト官僚打倒」のスローガンより、「労働者国家無条件擁護」のスローガンが、多くの人々に誤解を伴ったインパクトを与えたのは、一つは日本においては革マル派・中核派の「反スターリン主義派」との対抗関係によって、他国の第四インターナショナル支部よりも”無条件”を強調したことと、ソ連邦・東欧諸国の過酷な秘密警察体制をついに突破出来ず、「歪められた労働者国家」内部に政治革命をめざす革命的主体の建設に成功しなかった、という歴史的経過によるものが大きいでしょう。
しかし、第四インターナショナル(とりわけ統一書記局潮流)は、一貫して1953年の東ドイツ暴動、1956年のハンガリー動乱、1968年のプラハの春、80年代のポーランド「連帯」の闘い、1989年の天安門反乱、そしてついにはソ連・東欧の官僚体制を打倒した民主主義を求める民衆の闘いを支持し、社会主義に向かう政治革命に転化しようとする挑戦を継続したことも、一つの『歴史的経過』であり事実なのです。
また、繰り返しになりますが、「労働者国家無条件擁護」とは、「帝国主義の経済的・軍事的な包囲・攻撃からのロシア革命の財産の無条件擁護」です。現在の復古主義的イスラム主義者に、何か「擁護」すべき進歩的な要素が一体どこにあるというのでしょうか。
・「労働者国家無条件擁護」と現在の北朝鮮体制の関係については、論点が広がりすぎてしまうので、別稿に譲ります。さしあたっては、下記リンクをご参照ください。
●北朝鮮と「堕落した労働者国家」論、社会主義革命運動の再生めぐって(かけはし2002.9.2号)
http://www.jrcl.net/web/frame0831b.html
「"イスラム原理主義"批判はイスラム教徒一般への敵対であり、アメリカを利する」というような思考もまた「反米一元主義」の一つの表現です。または、「イスラム教徒一般」をアリバイに、原理主義者を擁護する言説に陥っている場合もあるでしょう。 また、「西欧産の"人権"という概念を第三世界に押し付けるのは一つのオリエンタリズムだ」とするような議論がありますが、私たちはその議論に組することは出来ません。その「第三世界」にも、封建的・反動的価値観と抑圧に反対して"人権"を求めて闘う人々が存在するのですから。
以上です。長文失礼しました。(F)
【追記】
「アフガン復興第一作」と銘打たれて製作された映画『アフガン零年』(原題-Osama)では、タリバン支配下のアフガニスタンで徹底的に抑圧される女性たちを描いています。この映画は、タリバンに仕事を奪われた女性たちが青いベールに身を包みながら「私たちに仕事をください」と訴えるデモ行進をタリバンが放水で蹴散らし、弾圧する場面で始まります。
元々、監督のセディク・バルマクは、アフガンの故事に倣って「少女が虹をくぐって希望を見つける」というラストにする予定でしたが、「今のアフガンにそんな虹=希望なんてない」とラストの場面を差し替えたといういわくつきの映画です。
しかし、この映画をよく観ると、ほんの一瞬だけ「虹」が架かっています。それは女性たちのデモを蹴散らす放水が作り出した「虹」です。その意図は「タリバンの放水の虹に希望なんてない」という暗示と「それでも、この女性たちの行動に希望がある」とするダブル・ミーニングではないか、と勝手に読み取りました。
タリバン支配時代から現在でも、最低限の人権すら認めないイスラム主義の反動的・封建的抑圧と帝国主義の軍事占領の狭間で闘っている女性たちがいます。彼女たちの闘いに「虹」を架けるのは、彼女たちの存在を忘れず、孤立させず、そしてつながりを作り出そうとする国境を越えた民衆の連帯なのではないでしょうか。
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